説教・聖書メッセージ「みちことば」
By Taichi Araki
説教・聖書メッセージ「みちことば」Apr 18, 2021
Doingからの解放
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」マルコ2:27
「安息日には働いてはいけない。」この戒めをファリサイ派は、こと細かに守りました。人を癒すこと、「床をかつぐこと」(ヨハネ5:9)、または歩く範囲まで定めました(使1:2)。神さまとの関係を忘れ、「してはいけない」という人間の禁止事項に束縛されるようになりました。
それでファリサイ派はお腹の空いた弟子達が安息日に麦を摘んで食べていることを咎めました。それに対してイエスさまは大胆にも「ダビデが安息日に神殿のパンを食べたように自分も食べてもいい」と答えてこう言いました。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
安息日の本質は、あらゆる労働への隷属、労苦、束縛からの解放です。モーセの十戒では人だけでなく、奴隷も家畜も労働から解放されます。神が慈しむ人間の自由と創造物の本能を回復します。そしてエジプトの奴隷から解放してくださった主の救いを覚えて安息し、感謝と賛美を捧げます。だから命を回復することは安息日に適っているのです。「安息日に許されているのは…命を救うこと。」(3:4)
本来、働くことは善いことなのですが、生活の必要から、または神を忘れるとき、私たちは、忙しい日常生活の奴隷になってしまいます。労苦に縛られ、心の安息を見失い、疲れ果ててしまいます。
イエスさまは真の安息、つまり罪と死からの解放を定めるために十字架に束縛されて死に、死の奴隷から私たちを解放して下さいました。そして復活し、聖霊によって私たちの内に存在しておられます。
この聖霊の存在に満たされるのが教会の安息日である主日です。礼拝は仕事でも義務でもなく、安息です。神さまの存在の内にすべての労苦から解放されて、深く安息する場です。人間の全てのDoingを一旦委ねて、神さまのBeingに安息します。そして十字架と復活によって私たちを解放してくださった神さまへの感謝に満ちるのです。「父に信頼する者を苦しみから解き放つ」安息に満たされます。そして神に赦され、受け容れられ、新しくされ、養われます。
解放の食事である聖餐の内に、神さまの安息にホッとしましょう。
「私はあなたに安息をあげる。私はあなたを全てのDoingから解き放つ。だからそのまま、私の安息に、私のBeingに安息して ればいいんだよ。」
自分を与える
私たちが祈る神さまは創造主です。私たちを創り、愛し、すべてを与えられる存在です。命を、健康を、愛情と友情を、死を超える命を与えられます。与えて与えて永遠に与え続けられる愛の存在です。
私たちは誰に、どんなときに「与えたい」と思うでしょうか。または誰になら「自分の命をすら与えたい」と思うでしょうか。親友に、信徒の兄弟姉妹に、伴侶に、子供に…。この「自分を与えたい」という愛の源が神です。神は愛です。
自分を与える愛の頂点、それが十字架です。神はその愛を受け取らずに死にゆく人間を見捨てません。父なる神は掛け替えのない愛し子の命を十字架で与えたいと願われました。そして子なる神イエスさまは、聖霊の働きによって、「自分の命を与えたい」という父の願いに全てを委ねて死なれました。
父と子と聖霊は一体です。だから十字架は「三位一体の神がご自身の命を与えた」出来事です。表紙絵はこれを表しています。イエスさまの十字架のうちに、神さまは私たちの罪と死と交換に、ご自分の命を与えてくださった。神さまは私たちを、死にゆく存在ではなく、ご自分の命で生かしたいのです。
そして聖霊の働きによってこれを信じる人には、新しい命、「永遠の命」が与えらます。それは永遠に自らを与え続ける愛です。「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)。つまり自分に愛が働くのです。
私たちは不完全ですが、この愛を信じるとき、自分を与える生き方が始まります。無理はせず、できる範囲でいい。「命を与える」なんてできない。それでも、自分の時間を与え、手間ひまを与え、赦しを与え、心を与え、笑顔を与え、涙を与える。「この人に自分を与えてもいい」と思えることは大きな喜びです。神さまの愛に触れることです。
聖餐で、自らの命を与える三位一体の神の声を聞き取りましょう。
「わたしはあなたに自分を与える。あなたがどんな人でも関係ない。自分与えて与えて、与え続ける。これがわたしの喜びだ。」
勇気の霊
「どうか福音の宣教によって、聖霊がますます世界に注がれますように」(聖霊降臨日特祷)
2024年5月19日聖霊降臨日
正直なところ「宣教」や「伝道」と聞くと「しんどいなぁ」と思う時があります。世界伝道どころか私たちの教会の現実は、信徒数の減少や、高齢化や、教区や教会の統廃合…。特効薬はなく、魅力や「カリスマ」の少ない自分に失望したりもします。しかし聖書が強調するのには、福音伝道は人間の業績ではなく、聖霊の働きです。人間が自分の主張を人に押し付けるのではありません。自分の力に頼るものでもありません。「聖霊に満たされて霊が語られる」のであり(使2:4)、イエスさまの息による罪の赦しの宣言です(ヨハネ20:22)。弟子達は自分たちに聖霊が降るように一つに集まって祈りました。「み国が来ますように」の運動でもしたように、人々に聖霊が働くように祈りました。自分にも相手にも聖霊が働くように祈るのです。私たちも聖霊に頼るとき、勇気を出して語ることができます。「今この人に伝えたい」と願っておられる聖霊が力をくださるからです。「イエスさまはあなたに自分の命を与えたんだよ。あなたは愛されているんだよ」と。直接的にそう言うことは滅多にないと思います。でも間接的に「あなたは神さまに愛されている」というメッセージは、時と場合と人に応じて、また行いや態度によって伝えることができるものです。伝わらなくても、拒否されても気にしてはいけません。責任は聖霊がとられます。めげずに忍耐強く愛を伝え続けるのです。そうしている中で、聖霊が相手に働くとき、人は神の愛の宣言を受け容れます。それが「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」(使2:8)という体験です。聖霊に呼ばれて人は神を選びます。十字架の愛を知ります。人が決心をする場に聖霊が働くのです。伝道については数ではなく聖霊を求めましょう。私たちが十字架の愛を語れる勇気を。相手がイエスさまの愛を受け容れる奇跡を。「わたしを信じなさい。あなたが語るべきとき、わたしが必ず勇気を与えるから。」
神さまの親友
「わたしはあなたがたを友とよぶ」ヨハネ福音書15:15
2024年5月5日復活節第6主日 聖餐式
入院中に親しい友人ができました。有り余るほどの時間のなかで、ゆっくりと出会い、語り合い、 親しくなりました。自分の病気や 過去、今の気持ちや絶望、未来 の希望や願い・・・。心の奥を開 いて相手に告げることを通して人は親密になります。親しい友になります。何も語り合わないと親しくなれません。そして親友のためなら、何でもしたい気持ちになります。
イエスさまが私たちを友と呼んでくださるのもまた、表面上の呼びかけではありません。言葉と行いでご自分の心を開き、奥底を示しくださることを通して、親密な友となってくださいます。イエスさまの心の奥底、それはイエスさまが「父」と呼ぶ存在との親密な交わり、友情のような交わりです。「わたしはあなたがたを友とよぶ。父から聞いたことをすべてあ なたがたに知らせたからである。」 (15:15) 神とは友情そのものです。
この父と子の親密な友情は私たち人間にも向けられ、私たちをもその友情に入るように招かれます。 神は私たちと友情を結び、親密な関係、親友になりたいのです。しかし私たち人間はそんな神の友情を拒み裏切ってしまう存在です。そのままでは神の友にはなれない。だからイエスさまは「友のために命を捨て」、私たちの拒絶を自ら被って死なれました。そうすることで私たちの拒絶と裏切りを消し去り、 赦し、私たちをご自分の友、神の親友にしてくださいました。
十字架は、ご自分の友情に対する拒絶をも受け止める姿です。神 はその友情のために、ご自分の命をも分かち合ってくださった。神は私たちのために命を捨ててくれた親友です。わたしたちは神の親友なのです。何という喜びか。 だから親友が語り合うような親密さで、神と語り合ってよいのです。
そして友情には友情で応えます。いつどんな時も自分のために死んでくださった「友なるイエスさま」に忠実でいる。そしてイエスさまが友と呼ぶ人々を愛する。そうしてさらに神と親密になるのです。
口を通して触れ合う最も親密な瞬間である陪餐を通して、イエスさまとの親密な友情を深めましょう。 神は友情を分かち合われます。
「友よ、あなたはわたしの親友だ。友よ、あなたのためにわたしは命を捨てた。友よ、わたしの友情に忠実でいてくれ。友よ、わたしの最も親密な友よ。」
イエスさまの代理
「父は別の弁護者を遣わして、 永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」
ヨハネ福音書14章21節
2024年4月28日復活節第5主日
正直なところ聖書のなかとは違い、イエスさまは目に見えないし触れることができません。どのように「共に」いてくださるのでしょうか。
聖霊降臨を控え、イエスさまの遺言が約束します。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:15)。この「弁護者」というのが聖霊の名です。聖霊はイエスさまの弁護人、代理人です。聖霊はイエスさまの存在を代弁し、その代わりになり、時と場所と形を超えて私たち弟子たちの内にいて、イエスさまを存在させます。純粋な愛そのものとして存在させます。
イエスさまは本当に肉体を持って復活されました。そして使徒たちに現れた後に「昇天」しました。つまりその体は今、目に見えない神の領域にあります。それ以降、直接に、復活直後のように、イエスさまの体を見た人はいません。
私たちはイエスさまが肉体的に共にいないことを受け容れて初めて、霊的に私たちの近くに、私たちの内に、存在するのを知ります。
これはちょうど、愛した人の肉体的な不在を受け容れて初めて、その人が心に居始めるようなものです。(イエスさまは体ごと生きておられる点は違うのですが。)
イエスさまの存在、それは愛そのものです。だからイエスさまを愛し、愛の戒めを行う人の内には肉体を超える弁護者がいつでもどこでも共にいて、イエスさまの存在を有らしめ、体験させ、悟らせてくださいます。愛が存在を呼びます。
聖霊は私たちの地上の身近な日常生活に働いて、イエスさまの存在をもたらします。目覚めた時、食べる時、働く時、話す時、休む時、祈る時。神さま、イエスさまなんていない、という不在のなかで、自分に最も近い魂の領域で、その存在と愛を引き起こされます。
聖霊が働く生活の中心、それが聖餐です。パンとワインを通して聖霊が働いて、私たちのうちに愛するイエスさまが存在し始めます。
「いつでもどこでもあなたの中で働く聖霊。それが私の存在だよ。」
狼と戦う愛
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ヨハネ10:11-16
2024年4月21日復活節第4主日聖餐式
羊飼いには2種類いる、とイエスさまは譬えを始めます。雇い人は利益のためだけに羊を飼っています。だから狼に襲われれば自分の命を守るために逃げます。
しかし飼い主本人は、羊を自分自身のように大切にしています。ナタンという預言者の譬え話に、貧しい男とその全財産である一匹の子羊の話があります。子羊は男の乏しいパンを共に食べ、男の懐で眠り、「さながら娘のようであった」(サム下12:3)。飼い主にとって羊は、自分の子どもと同じほどに掛け替えのない存在なのです。
日本人には羊や羊飼いは身近ではありませんが、親子の関係を思えばよく分かります。愛する存在は守らねばならない。だから凶暴な狼が襲ってきも動かない。逃げない。どれだけ怖くても、狼を睨みつけて羊を守ります。たとえ噛みつかれて傷ついて殺されても、羊を守ります。犯罪者に襲われた時など、自分の子供ならそうします。
ここで狼とは罪の力のことです。私たちを神の愛から「奪いまた追い散らす」強い力です。(12節) 心を内側から喰らう闇です。神さまは体を張って私たちの代わりにこの力を受け、私たちを守られました。神は罪と闘う存在であり、十字架は神さまが受けた愛の傷です。
しかし十字架で殺された時、弟子たちは分かりませんでした。なぜ先生は逃げなかったのか。愚かなことだ。悲しい結末だ。
しかし復活したイエスさまに再会し、その愛を悟ります。「先生が殺されたのは愚かで弱かったからではない。私たちに代わって罪と戦い、私たちを救うために、罪と共に死なれた。死ぬほどまでに、私たちは神さまに愛されている」と。
「彼が担ったのは私たちの病い、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし私たちは思っていた。彼は病いに冒され、神に打たれて苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)これは十字架の苦しみの内から愛が現れ、それを悟る話なのです。あれは神さまの愛だったのだ、と。
聖餐では、私たちを守るために神さまが受けた傷から、その愛を飲ませてもらいます。どれだけ私たは神さまに愛されているか。
「私はあなたを守った。子羊のように子どものように死んで守った。安心しなさい。私はあなたを愛している。そしてあなたを必ず守る。」
創造主に出会う
トマスは復活の朝にはイエスに会えませんでした。しかし他の弟子らは復活したと言います。だから一週間の間ずっと会えることを望んでいました。「釘跡に指を、脇腹に手を」とは、疑いというよりも求める心の表れです。私たちが毎週神さまを求めて礼拝に来ることの象徴です。
そしてついにイエスさまと出会い「好きなだけ私の体に触れていいよ」と言われました。その瞬間にトマスは、イエスさまに会えて「喜んだ」だけの他の弟子たちよりもはっきりとことの重大さを悟って告白します。「わたしの神よ。」
このお方は人間であるだけではない。私を含め、生きとし生けるものに命を与えるお方。アブラハムに不妊のサラから命を与えたお方。自ら死んで復活することで死を滅ぼし、新しい創造を始められたお方。そして私たちを新しく創造し復活させるお方。
この人は全宇宙と歴史の創造主、「初めに言(ことば)があった」とされる神だ、と。
これを見て信じたトマスは「命」を受けました。もはや死や病いや苦しみは消える新しい創造世界に入りました。私たちもまた「見ないで信じる」ことで創造主としてのイエスさまに出会い、新しい創造世界に入るのです。
復活のイエスさまと出会う。それは創造主を信じ、出会い、新しく創造されることです。それが毎主日の聖餐です。見えない創造主に、目に見えるパンとワインを通して出会い、驚くべき命の輝きを賛美し、変えられましょう。
「わたしの子よ。わたしはあなたの創造主だ。」
今も生きている!
「あの方は復活なさってここにはおられない」 マルコ福音書第16章6節
2024年3月31日 復活日
「イエスさまは、今も生きている!」これがキリスト教です。これを信じればそれで十分です。救いも赦しも、天の国も神の愛も、すべてはこれを信じる人に与えられます。
復活信仰とは、死んだ体がどのように復活するのかを分析して説明して納得することではありません。そうではなくて「イエスさまは死んだままではなく、今も私たちの近くで生きている」と信じて、罪と死の過去に囚われず、共に生きくださっている現在を確認し、明るく未来を生きていくことです。希望です。
しかしそう言われても、死を越える命を信じるのは困難です。イエスさまのご遺体を葬ろうと墓にきたマリアたちは、天使に復活を告げられました。「あの方は復活なさってここにはおられない」。そこで彼女たちは信じたのではなく「墓を出て逃げ出した。震え上がり正気を失っていた。そして誰にも言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコ福音書は失敗で終わり、結末は読者の決断に委ねられます。あなたはどうする?
私たちはマリアたちのように、ともすると否定的な心で死や罪に目が行き、心が囚われるのが自然です。病気の不安や恐れ、死の悲しみ、罪を犯した過去、どうしても愛せない自分。心が暗くなり、希望を忘れ、絶望に傾きます。
しかしそれら全ての源である死を見つめても救われません。そこに主は「おられない。」死と罪は十字架と共に過ぎ去り、主イエスさまは新しく生きておられるのです。
つまり「死や罪を見つめるのはもうよしなさい。今も生きているお方を見つめなさい。あなたの痛みを負い、病いを知ったお方は、あなたの代わりに十字架で死に、今、新しい体で生きている。」聖書は初代信徒たちのこの強烈な「主は生きている」実感を伝えます。
一度は逃げ出したマリアたちも、イエスさまに出会うのです。その時どう生きるか。死と罪に囚われるのではなく、今も近くに生きておられるイエスさまを信じましょう。イエスさまを通して生活と人生と世界を信じましょう。死よりも強い命を、罪よりも優しい愛を、絶望より明るい希望を生活の中で実践しましょう
聖餐の只中に生きておられる主の声を聞きましょう。「今も私はあなたの近くで生きている。だから一緒に、新しく、生き直していこう。
病いを通して
「多くの痛みを負い、病いを知っている」(イザヤ53:3)
2024年3月24日復活節前主日・棕櫚主日
「分かるよ。私も同じ。」 どんな優秀なお医者さんの診察よりも、同じ病いや問題を抱えて苦しむ仲間の一言のほうが癒しとなることがあります。自助グループはこれをします。同じ苦しみを抱える人にしか分からない、言えないことを語り合うことで癒され、力づけられます。
神さまも、自ら体験することで私たちの痛みと病いを「知っている」存在です。人間の共感には限界がありますが、神さまは無限です。すべての人の痛みと病いを自ら体験して「知っている」のです。
イエスさまの苦しみ。復活後の信徒らは、その苦しみの意味をイザヤ書に見出しました。イエスさまが体験されたのは、私たちの病いと痛みだったのだ。私たちと一体になって、私たちの代わりになられた。それによって私たちは癒されたのだ、と。
病いと痛みには体と心の両方のものがあり、それは究極的には死に繋がります。また「神さまと自分との関係」としての魂の領域にも、病いと痛みはあり、それは罪と咎(罰)と呼ばれます。これらは魂の死、つまり神さまと絶縁された絶望と悲しみをもたらします。
しかしイエスさまは、体と心と魂すべての病いと痛みを体験し、完全に私たちに共感し、また私たちに代わって死に至るまで一体となられます。苦しみによって一つになってくださるのです。そして私たちを癒されます。「分かるよ、私も同じだから」と一言かけるように。
そして体を復活させて病いそのものを消し去り、心を平和にして良心の呵責を拭い、魂を赦して神と一つにしてくださいます。
神さまは、イエスさまの苦しみのうちに私たちを知ってくださっています。それは逆に言うと、私たちは苦しみの中で、イエスさまの苦しみを知り、神さまを知るのです。病いと痛みのなかで神を知るのです。
聖餐の苦しみのなかに、神さまの完全な共感を知りましょう。
「分かるよ。私も同じ。」
心騒ぐ神さま
2024年3月17日大斎節第5主日 イエスさまが心を騒がせている。何と祈ればよいか分からないほどに騒がせている。見ているのが辛くなる場面ですが、より深く見つめると、これは大きな慰めです。私たちが信じられずに心を騒がせるときも、神さまが共にいてくださることの表れだからです。
クリスチャンでも私たちは心を騒がし、不安になり、恐れ、動揺します。病い、老い、経済的不安、人間関係、仕事や家族の役割の重責、そして死の苦しみと死の悲しみに面するときは必ず来ます。そんな時、神さまを100%信じたいものですが、簡単ではありません。
不安や恐れは神さまを信頼しない罪とも言えます。ですが神さまはこの罪に苦しむ私たちと共におられます。罪の結果の不安と恐れを自分のものにし、私たちの罪と共に死ぬ。そうして罪は消え、神さまを仰ぎ、解放される。死から命に至るまで共にいてくださる。「罪と共にいてくださる。」それが罪の「贖い」です。(特祷) 私の罪を生きて、死んで、復活してくださる。私のために犠牲になってくださる。それが「大祭司」イエスさまです。
私たちの罪と共にいる。そのためにイエスさまは死の杯を飲まねばなりませんでした。ヘブライ書のイエスさまは「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」祈ったといいます。(5:7)私たちすべての不安と恐怖の罪と最後まで共にいる。それはどれほど苦しいことか。
だからこそイエスさまは今、復活後に新しい体で、どこでも私たちと共に生きていて、私たちが心騒がせる罪と共にいて、嵐の中で共に涙を流し、叫んでくださいます。
私たちの「心騒ぐ」罪と共にいて祈ってくださる。それが民と共に祈る「大祭司」です(ヘブ5:5)。です。人となった神さまが私たちの祭司として祈ってくださる。どんなに不安で怖くて信じられなくても、神さまに届かないことはありません。
聖餐式の代祷は、大祭司イエスさまによる「心騒ぐ涙の叫び」でもあります。私たちの罪と共にいる神さまの祈りです。大斎節と聖週、イエスさまと共に全ての心騒がす恐れと不安の罪の贖いを祈りましょう。信じられない罪が赦されるように祈りましょう。世界の罪が赦され悔い改めるように祈りましょう。そして復活によって、感謝と賛美へと変わる日を待ち望みましょう。
「心騒がせる日、信じられない罪に苦しむ日、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを贖う。」
退屈な礼拝?
2024年3月3日大斎節第3主日 この場面をたとえるなら、急に若い神学生が礼拝に来て献金袋の中身をばら撒き、牧師を引きずり下ろし、会衆を礼拝堂から追い出し、叫ぶようなものです。「こんなの本当の礼拝じゃない」。十分な破門(または逮捕)の理由になります。
イエスさまはそのようにして言われました。「この神殿を壊せ、三日で建て直す」。弟子たちはのちに、これは十字架と復活のことで、建て直す神殿とはイエスさまの体のことだったと、あとで悟ります。
神殿や礼拝とは本来、神さまの存在が満ちるところです。十戒も、聖書も説教も、洗礼も聖餐も神さまの臨在を指し示すものです。「こう生きるなかで神は現れるよ。神の存在はこのようなものだよ」と。
しかしパウロが嘆く「望まないことをしてしまう」罪の力によって、私たちは神さまを忘れます。(ロマ7:20) 礼拝は退屈に見え、信仰よりも金銭価値に縛られ、イエスさまを都合よく飼い慣らしてしまいます。
そんな神さま以外の価値に基づく偽の礼拝を「壊せ」とイエスさまは命じられます。そして実際にご自分の体に悪を集めて十字架で死に、偽の礼拝を滅ぼされました。そして復活して言われます。「わたしこそ本当の神殿だ。神の存在が充満する場所だ。わたしに結ばれて聖霊の内に、父を賛美しよう」と。
本当の礼拝、それは「復活の主は今ここにおられる」と信じて主の体の一部となり、感謝と賛美を献げることです。人であるイエスさまを通して人生の喜びと悲しみを父に献げ、神であるイエスさまに出会うことで復活の命に再創造されます。
イエスさまと親しく交わり、聖霊の内に父に献げる礼拝は、私たちの心の鈍さを遥かに超える力を持っています。人生を変えます。神が私たちの間にいるのですから。
この大斎節、イエスさまと一体となって、罪と死とエゴに基づく退屈な礼拝を壊して頂きましょう。そして兄弟姉妹と共に復活の礼拝を建て直して頂きましょう。新しく創造された命が力強く宿る礼拝を。
「退屈な礼拝はわたしが壊してあげよう。そして力ある礼拝をわたしが建て直してあげる。だから今日、わたしと一体となって献げよう。復活の存在に満ちた礼拝を。」
愛の十字架を背負う
「自分の十字架を背負って」マルコ福音書第8章34節
2024年2月25日大斎節第2主日
世間一般に「十字架を背負う」とは、「一生消えない罪を背負う」という意味です。しかしキリスト教では罪を背負うのは神さまです。ですからこれは十字架で罪を消し去った神さまの「愛を背負う」という意味です。
十字架の愛とは、神さまがご自分の命を犠牲として差し出し、私たちの罪を引き受けて死なれたことです。この愛の犠牲によって私たちの罪は消され、罪の定めも責めも私たちは背負わず、愛を生き始めるように召されたのです。
自らを犠牲にする愛。これが現れたのが、アブラハムが息子イサクを惜しまず献げようとした場面です。これは神さまの愛の譬えです。(創世記22章)
またパウロは神を「御子をさえ惜しまず死に渡された方」と呼びます。(ローマ8:32) これは決して「父が人類の救いのために息子を殺した」ということではありません。人間と違い、父なる神は御子と同一です。御子は父の第二の自分、自分自身です。神さまが自分を犠牲にして罪を背負い、担い、引き受けて死に、罪と死を消し去り、そして復活して命を与えられたのです。
この自らを犠牲にするほどの愛が「神のことを思う」イエスさまの心です。そしてこの愛の犠牲を受け入れないのが「人のことを思う」ペトロの思いです。(マルコ8:33)
私たちの罪を消し去るためにご自分の命を犠牲にされたイエスさま。この方が復活して今も生きておられます。この愛の犠牲を受け入れ、感謝し、赦された罪を悔い改め、この人の愛に応えて生きること。それが「十字架を背負う」ことです。死の苦しみにも罪にも負けず、自分のために死んでくださった神さまの愛を、自分なりに精一杯感謝して、生き切ることです。
とは言っても神さまの愛を背負うことは、決して重荷ではありません。旅路を軽やかにする感謝と喜びの手土産です。なぜなら神さまの愛こそが私たちを背負ってくださっているからです。私たちは愛に背負われつつ、愛を背負い、愛を着て、上からも下からも神さまの愛に守られて、命の旅路を歩むのです。神さまの荷は軽いのです。(マタイ11:30)
神さまは言われます。「あなたの重荷を背負うのは、あなたじゃなくてわたしだよ。あなたはただ、わたしの愛に生かされればいいんだよ。」
荒れ野が楽園に
「サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
マルコ福音書第1章13節
2024年2月18日大斎節前第1主日
死から命の旅である大斎節の初めに読まれるこの奇妙な箇所は「新しい楽園の新しいアダム」のようです。このマルコ福音書にだけ野生の動物「野獣」がいるのです。創世記第1章で神は世界を創り、獣を創り、人間を創って楽園に住まわせ、食べるための木の実を与えました。同じようにイエスさまはここで野獣と共にいます。ですが天使に仕えられて養われています。野獣との間に敵意はありません。平和な楽園のようです。
また古いエデンでは蛇の姿をした悪魔が人間(アダム)を誘惑し、人間は神になろうとして楽園を追放され、死にいく者となります。同じように荒れ野でもサタンがイエスさまを誘惑します。ですがイエスさまは(ルカのゲッセマネの園のように)天使によって仕えられ力づけられています。新しいエデンでは、人間は誘惑を退けて100%神さまを求め、100%自由になり、愛と喜びに満ちた最も人間らしい人間、最も自分らしい自分になります。
ここでの新しい楽園としての荒れ野は、復活の命の先取りです。洗礼を受けたエスさまが目指す目的地です。死と悪魔の荒れ野が、命の楽園になる。そのために苦しみと復活の旅に出ます。私たちの死と悪を引き受けて死に、復活して新しい命の楽園を開かれます。
使徒書ではノアの物語が洗礼の象徴とされています。死の洪水を方舟に守られた者は、新しい世界に生かされます。洗礼を受けた者もまた、新しい世界に生き始めるのです。死が命に変わります。
人生の荒れ野は苦しいものです。渦中にあっては終わりも出口も、神さまの導きも見えません。神さまなんて信じないで、いっそ死んだ方が楽かとも思えてきます。まさに荒れ野は死と隣り合わせです。
しかしイエスさまと一体になって神さまの奉仕を受け容れるとき、荒れ野は新しい楽園になり始めます。新しい人間になる場になります。神さまの奉仕により「お前が神になってしまえ」という悪魔の誘惑を退けるとき、神に愛された新しいアダムになるのです。
「礼拝でわたしの奉仕を受け入れなさい。わたしはあなたの荒れ野を新しい楽園にしよう。」
何でもするから
「子どもの上に身を重ね」列王紀下4章34節
2024年2月4日 顕現後第5主日
私たちは愛する人が病気や死に面するとき、「元気になるなら何でもするから」と願い、祈ります。 預言者エリシャには援助してくれていた大切な婦人がいました。しかしその息子が、くも膜下出血で亡くなります。悲しむ母親を前に、エリシャは「何でもするから」と預言者の威厳を何とも思わず、うつ伏せになって子どもの体の上に自分の体を重ね、自分の口を子供の口に、その手を手に、その目を目に付けて、創り主の真似をして息を吹きかけ、手を温めて懸命に祈りました。それでもダメなら、起き上がって家の中を歩き回っては思いつく限りの言葉でぶつぶつ祈り、もう一度、覆い被さりました。そうすると神はその祈りを聴き、息子は癒され、生き返ったのです。やみくもの努力が報われたのです。 イエスさまの周りでも同じでした。みな必死です。「元気になるなら何でもするから」とシモンは熱病の姑を連れてくる。それを聞いた人々も「何でもするから」と町中の病人や悪霊に取り憑かれた人々を連れてくる。イエスさまが祈っている最中にもかかわらず、「何でもするから」と弟子たちはガリラヤ中の人を連れてきたのです。 祈りにルールはありません。恥もプライドも捨て、思いついたことは「何でもして」神さまに願うのです。どんな言葉も、どんな姿勢も、いつでもどこでも誰にでも、必死に願うのです。そうすれば神さまはその願いを必ず聴き、死に対して命の勝利を現されます。それが「み国が来る」という宣教です。 イエスさまも「父よ、何でもしますから」と私たちが死の力から癒されるために祈りました。ゲッセマネで祈りました。その条件が「他人の罪を受けて死になさい」であってもそれを受けました。何とかして私たちを癒して、救いたかったのです。 そしてその命懸けの祈りを神は聴き、復活の命を与えられました。 神さまは私たちが罪から癒されるためには「何でもする」お方です。私たちの罪を背負って死ぬことさえ厭わない、愛のお方です。 「何でもするから」と自分の命をお与えになる神さまを陪餐で頂き、神さまの手足となれますように。「あなたが癒やされるためなら何でもする。信じるためなら何でもする。だから神さまを信じてください。神さまに癒されてください」と。
わたしはあなたが好き
「権威ある新しい教えだ」マルコ1章27節
2024年1月28日 顕現後第4主日
「私はあなたが好き」 恋する人に告白するときは、自分自身の気持ちを素直に伝えます。「〇〇さんはあなたを好き」とか「状況証拠から、私はあなたが好きなようです」では自分の思いは届きません。 カペルナウムの会堂で、イエスさまの語りかけを「新しい権威だ」と律法学者たちが驚いたのは、イエスさまが「自分自身の気持ち」として神さまの心を語ったからです。「聖書にはこう書かれています」とか「あの先生はこう言いました」と、他の権威によってではなく、自分の気持ちとして自由に、力強く語られました。神さま自らがご自分の心を語られたのです。驚きです。 それはただの、モーセの「ような」預言者(申18:18)ではなく、絶対の実行力を持つ新しいモーセです。人となり、死に、復活することによって新しい契約を結ぶ神さまが、自らの心を語っているのです。「結婚して下さい」と告白した人は、その結婚を実行するようなものです。イエスさまを通して神さまは、自らを犠牲にして命を与える愛を語るだけではなく、その愛を実行して死に、そして復活されました。死にも罪にも負けず、神の言葉を少しも違わず実行されました。 人となった神が語る自分の心、それは愛です。(1コリ8:1) イエスさまの教えは知識を伝えるだけの言葉ではありません。命をかけた愛の告白であり、愛の実行であり、人を愛に変えてしまう出来事です。「それでもわたしはあなたが好きだ。」 この神さま自らの愛の告白が、人に取り付いた汚れた霊を打ち負かせます。「この人は汚れている」という偏見の呪縛を打ち砕いて、愛は死に勝ちます。「ほかの人間がどう言おうと関係ない。それでもわたしはあなたが好きなんだ。」 聖餐の中心も神さま自らが語りかける「わたし」です。「これはあなたがたのために与える、わたしの体。わたしの、新しい契約の血。」神は聖餐で、ご自身の愛の心を開き、その愛を実行されます。陪餐のときの言葉を「わたしはあなたが好きだ」と言い換えてもよいのです。 そして神さまに「わたしは」と語りかけられた人は、自分の殻を出て神の溢れる愛に飛び込みます。自分の「私は」が呼び覚まされます。「私もあなたが好きです。小さく弱いですが、私の人生を捧げます。」 「わたしはあなたが好きだ。死ぬほど好きだ。あなたはどうだ?」
最初の愛
「二人はすぐに網を捨てて従った」
マルコ1章17節2024年1月21日 顕現後第3主日
人生の終わりに夫婦が最初の愛を思い出して微笑む。この箇所はそのような記述です。裏切りや十字架、復活と聖霊降臨、宣教と殉教。色んな出来事を経てペトロがイエスさまへの最初の愛を振り返っています。そしてペトロの記憶を通して教会がイエス様への最初の愛を振り返っています。
ペトロはもともと「教皇」や「大主教」という世界的な宗教指導者とは程遠い無学な田舎の漁師でした。そこにイエスさまが来て「わたしについてきなさい。人をとる漁師にしよう」と言われたのです。それが最初の愛の瞬間です。その瞬間にペトロは家族も、家業の漁師も、自分の未来も不安も捨て「すぐに網を捨てて従った」のです。 最初の愛の瞬間にペトロを惹きつけた憧れは、イエスさまのうちに近づいた新しさと懐かしさでした。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を(わたしを)信じなさい。」新しい世界を見たい。忘れていた本当の自分に帰りたい。あなたについて行きたい。
最初の愛。私にとってそれは学生時代に礼拝で感じた「このためになら生きていける」という、探し求めていたものを見つけた喜びでした。生きる意味、人生を捧げる相手でした。そしてこの最初の愛を貫こうとし始めました。
神さまへの最初の愛。どんなに小さくても、この世的な出来事でもいい。皆さんにもあるのではないでしょうか。最初に神さまを愛した体験です。
ただし私の場合は、洗礼を受け、聖職按手も受けたものの、病気や失敗で自信を失い続けてきた最初の愛です。それでも自分の愛を超えて神さまはここまで私を連れてきてくれました。神さまこそが、最初の愛を忠実に貫いて、私を守り導いてくださったのです。
ペトロもまた、裏切りと宣教と殉教を通して何度も最初の愛を忘れかけましたが、それでもイエスさまに導かれて、かろうじて愛し続けたのです。
そしてイエスさまこそ、ペトロと出会った最初の愛を貫かられました。ペトロを愛して「人をとる漁師にする」と約束し、その約束を果たすために十字架でペトロの罪を担って復活し、聖霊によってペトロの宣教と殉教を力づけ、最終的に人をとる漁師としたのです。イエスさまが愛を貫いてくださるからこそ、私たちも愛を貫けるのです。 元漁師の教皇が語ります。「最初の愛を貫きなさい。私も何とか貫いた。」
イエスさまが語ります。「最初の愛を貫きなさい。私はあなたへの愛を必ず貫いて、罪と死を背負って守るから。」
そして信仰生活の最後には、最初の愛を振り返って、感謝しましょう。「あぁ、あなたを愛して本当によかった。」
言い聞かせる
「あなたはわたしの愛する子」マルコ福音書1章11節
2024年1月7日 顕現後第1主日 主イエス洗礼日
ズドーンとこの言葉が心に響きました。何の難しい考えもいらない。註解書も神学書もギリシャ語の分析よりもさきに、神の愛は私の心にズドーンときます。どんなに不安でも、悩んでいても、怖くても、祈りが足らなくても関係ない。神さまは語り続けられます。私のために死んでくださるほどのその愛を。「あなたはわたしの愛する子」と。
このマルコ1章11節が聖書にあるかぎり、昔も今もこれからも、どんな時もずっと、私は安心です。その都度、何度も何度も神は私に愛を語ってくださるからです。
神の愛は感情だけではありません。神の愛を感じるかどうか自分の心や体験の中を探さなくてもいいのです。イエスさまと一緒に、聖書の言葉を自分に言い聞かせれば、その言い聞かせる言葉を通して神さまは語りかけられます。「あなたはわたしの愛する子」と不安で恐る自分に言い聞かせればその言葉を通して、神は語りかけられます。ゆえに聖書は救いの書なのです。
イエスさまは宣教活動の初めの洗礼で、この父の愛の言葉を聞きました。以来ずっとこの言葉を自らに言い聞かせられたのだと思います。荒れ野で悪魔に面し、神の支配を宣言し、弟子を選び、人を癒し、論敵と対峙し、友に裏切られて死ぬ人生。その間ずっと愛を自分に言い聞かせ、人に教え、父に祈られました。そしてその言葉を通して、父はイエスさまに愛を語り続けてこられたのだと想像します。
だから十字架の苦しみの中で「神に裏切られた」と嘆きつつも、それでも「あなたはわたしの愛する子」という愛を信じたのだと思います。そして復活がその神の愛を確証したのです。
聖書の愛の言葉を自分に言い聞かせましょう。神はその中で愛を語られます。洗礼と聖餐を通して自分に言い聞かせましょう。
「わたしの愛を言い聞かせなさい。そうすれば必ず聴き取れる。あなたはわたしの愛する子。」
絶対に何かが変わった
「復活によって力ある神の子と定められた」
ローマ書1章4節2024年1月1日 主イエス命名日
年が変わった朝、「新しく変わりたい」願いつつ、「どうせ何も変わらない」と現実的には諦めているところもあります。
しかし回心したパウロは宣言します。世界は絶対的に変わった。この福音を私は伝えると。元来「福音」とは王の即位の知らせです。国中に伝えられる統治の交代の知らせです。
だからイエスの「福音」とはイエスの人生を通して神ご自身が世界の王に即位した、という知らせです。ダビデの王家の血を引く若者が王に即位した。「力ある神の子」として即位した。「神の子」とはローマ皇帝の称号で、キリストとは「油注がれた王」です。
ただしその即位は驚くべき形でした。無実の処刑と復活の出来事です。死者が復活したというこの世界の絶対の変化、不可逆的な変化が実際に起こりました。紀元30年4月9日(日)の早朝です。世界はそれから絶対的に何かが違うのです。
神ご自身が私たちの罪を被って死に、私たちの罪の決着をつけ、私たちを赦し、罪の束縛から解放してくださった。そして復活によって私たちに、死を超える新しい命へと再創造を働き始めました。
この客観的な変化は私たちの感情に関係なく、実際に起こった絶対的変化です。この復活による救いの知らせが「福音」です。
それは聖餐を受ける前と後では確実に何かが変わっているようなものです。
「私は復活した。絶対的変化があり、古いあなたは新しくなる。希望をもって、新しく生きなさい。」
神さまの忠誠心
「忠誠心が現れたので」 ガラテヤ書3章25節2023年12月31日 降誕後第2主日
誕生以降、イエスさまはどのようにマリアに育てられて、どのような少年に、青年に成長していったのでしょうか。 イエスさまの人格の中心。それは「忠誠心」です。信仰とも訳されます。 信仰とは「神は存在すると思う」ことではなく、何があっても神さまに忠誠を尽くすピエタ心です。旧約の律法はそう教え、審きました。 逆に罪とは、神さまに忠誠を尽くさず裏切ることです。アダム以来人類は、またイスラエルの民は、神への忠誠を破り続けました。 しかしクリスマスに神の子が人として生まれた。「忠誠心が現れた。」イエスさまはイスラエルの民の鏡、最も人間らしい人間です。神と人に忠誠を尽くすお方です。何があっても、どれだけ裏切られて苦しくても、十字架の死に至るまで、ご自分の命を与えて愛し続けるお方です。たとえ私たちの罪と悪を背負うことになっても、私たちを愛されるお方です。私たちに愛を誓い、その愛に忠誠を尽くすお方です。 人となられた神イエスさまの忠誠心に結ばれて、私たちも、忠誠を尽くす真の人間になれます。イエスさまに結ばれて、父に忠誠を尽くす神の子になれます。 そして私たちが忠誠を尽くすのは、イエスさまの内で自らの命を与える神さまです。十字架と復活による命です。この命の神さまに忠誠を尽くして、罪と死と病気の力を退けるのです。それが受洗者の生涯です。 究極的には、神さまは忠誠そのものだといえます。何があっても私たちへの愛を貫かれるお方なのです。クリスマスに現れたのは私たちの本当の姿です。真の人間です。神と人に忠誠を尽くす生き方です。 聖餐でイエスさまの忠誠心をいただいて祈りましょう。「アバ父よ、私はあなたに忠誠を尽くします。」
ガザのおくるみ
11月中旬、ガザのシファ病院からの写真には電力不足で停止した保育器から出された39人未熟児が、緑のシーツにくるまれて寝かされていました。1200gにも満たない未熟児は、酸素吸入と温度管理がなければすぐに死んでしまいます。実際に国連と新月社に救助されるまでに8人の小さい命は尽きてしまいました。看護師たちにできたのは自分たちの体温で温めてシーツでくるむことだったそうです。死に対する愛の抵抗です。
神は本当にいるのか。なぜこんなにも弱く、弱いからこそ大切にされるべき命を死なせてしまうのか。怒りの涙が出ます。
放っておけば死んでしまう無力な命。だからこそ自分のできる限りで守ってあげたい。神の母マリアもヨセフも同じでした。
天使に約束された初めての子を旅先で産む。出産のために宿屋の代わりに馬小屋を見つけ、揺りかごの代わりに飼い葉桶に寝かせ、旅荷の布を「おつつみ」にして大切に赤ちゃんを包みました。裸の命を温めました。放っておけば冷たくなって死んでしまうのです。
人間が愛さなければ死んでしまう無力な存在。神はそんな存在となりました。それはあの未熟児のように、愛されなければ死んでしまう無力な私たちと一体になるためです。そして私たちの弱さを受け容れ、死んで復活することで、新しい命に生まれ変わらせるためです。
そしてイエスさまはあの未熟児の顔から語りかけられます。「私はあなたの愛が必要だ。無力でもいい、助けられなくてもいい。それでも目の前の小さな命を自分の体で温めて、心でくるみなさい。死に対して最後まで愛で抗いなさい。あなたの愛を通して私は人間を愛する。」
それが馬小屋の一枚の布であり、シファ病院のシーツです。死の力に愛で対抗するとき、神はその愛の中にいます。そして私たちの愛に力を与えるのです。
幼子イエスと共に、召された赤ちゃんと共に、おくるみのような愛を祈りましょう。
「わたしは全能に無力な愛だ。わたしをくるみ、わたしと共にくるまれ、死に愛で抗おう。」
ほんとに、よかったね
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ヨハネ福音書第3章30節
2023年12月17日 降臨節第3主日(B年)
結婚式のドレスコードでは 白色は NG だそうですね。 喜びの白は花嫁のもの。自分の喜びは横に置いておいて「ほんとに、よかったね」と花嫁の喜びを自分の喜びとします。(2 月の結婚式に参列した方々はそのような気持ちで喜び、もらい泣きしたことでしょう) 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」これは我慢ではなく喜びの言葉です。
洗礼者ヨハネたちはヨルダン川で活動していました。そこにイエスさまも来て洗礼を受け、弟子の一人となったのです。しかしそのイエスが今は自分の伝道活動を始めて「みんながあの人のほうに行 っています。」それで嫉妬して師匠のヨハネに同情したのです。
しかしヨハネはその呆れた勘違いを正しました。イエスさまこそ花婿で、人々は花嫁。自分は花婿の立会人だ。だから花婿と花嫁の喜びに嫉妬するどころか。むしろ花婿と花嫁が結ばれた喜びこそ私の喜びだ。神と結ばれた人々の喜びこそが私の喜びだと。
人の喜びは自分の喜び。それが教会共同体です。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」 (ローマ 12・15) 誰かの結婚の喜びは自分の喜び、誰かの洗礼の恵みは自分の恵み、誰かの死の悲しみは自分の悲しみ。共に聖歌を歌い、共に涙を流し、共に笑みがこぼれ、そして共に旅立ちます。
もちろん、私がそうですが、嫉妬によって人の喜びを自分の喜びにできないときがあります。自分に与えられていない賜物であったり、恵みであったり、幸せの喜びを。
そんな人を嫉妬から解放するために神は人になられました。そして人の嫉妬をその身に集めて十字架刑で殺されました。そうして嫉妬を完全に「衰え」させました。そして 「栄え」の命に復活し、嫉妬の人を喜びの人に変えていかれます。
人の喜びを自分の喜びとする教会共同体の中心、それがイエスさまです。私たちの喜びをご自分の喜びとなさいます。「よかったね。 神さまに愛されてよかったね。神さまに恵まれて、ほんとに、よかったね。」
そしてイエスさまに結ばれて私たちも、そんな教会共同体の一部、自分らしい自分になれるのです。
「十字架であなたの嫉妬は衰え、 復活で喜びは栄える。人の喜びを喜ぶ人になろう。教会共同体になろう」「ほんとに、よかったね」と。
神殿を待つ
2023年12月3日降臨節第一主日(B年) 今日から降臨節。イエスさまが 来られたこと、そして再び来られる日を待つ季節です。
牧師の務めに信徒さんの「死に対して準備していること」がありま す。寝ていても外出中でも、危篤や逝去の知らせを受けます。夜にゆっくりして眠りにつこうとしているときなどは動悸がする時もあります。
しかしこれは一つの恵みでもあります。常に死を忘れずに覚悟しているということは、死の向こう側から来られる、死に勝たれた復活のイエスさまを待つことだからです。
「人の子」とはイエスさまのことです。イエスさまは、このダニエル書7章が記す言葉で、最後の日を予言しました。「もうすぐ私は栄光と力のうちに来て、すべての悪を審き、すべてを愛の支配で完成する」と。
そしてこの予言は実現しました。 復活から40年後のエルサレム陥落 と、神殿崩壊の史実です。愛と正義を伴わないニセの礼拝の場であった神殿を神さまは審き、破壊しました。その代わりにキリスト者たち の体を、新しい神殿として、その内 に住まわれ始めたのです。
そして既にそのときから始まっている終わりの時が完成するのが復活の時です。実際には私たちはその時が来る前に死ぬでしょう。しかし千年も万年も億年も、神さまの 目には瞬きにすぎません。死は一 瞬の眠りにすぎないのです。
人の子イエスさまが再び来られる最後の時、死と病と罪という悪の支配は崩壊します。そして「大いなる力と栄光」の内に神殿が天から地に降りてきます。神ご自身が降りてきます。そして未完成の神殿であった私たちクリスチャンの体は、復活して、神さまと一つの神殿になります。それは生前の私たちよりも、もっと自分らしい自分です。生 き生きとして輝く宝石となって、神の栄光で神殿を照らすのです。
「準備をしていなさい。死は必ず来る。死を超えた私自身も必ず来る。そしてあなたを私の神殿の一 部にする。そして一緒に輝こう。」
抱きしめたい (こどものお話)
子ども祝福式
「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」
ルカ福音書15・20
自分に忠実
2023年11月19日 聖霊降臨後第25主日(特定28)
タラントンの譬えでは、自分に託されたお金を用いて儲けた召使いは「忠実だ」と褒められます。しかしお金を隠してそのまま返した召使いは不忠実な「怠け者め」と排斥されます。
この譬えでイエスさまは当時の指導者を批判しました。「あなたたちは神から託された恵みに忠実ではない。与えられた律法と神殿の目的は神の愛を伝えること。だのにお前たちはその目的に不忠実で、恵みを利用するだけ利用して隠している。そんなあなたがたは破滅する」と。実際に神殿は破壊されます。
神の恵みの目的は、愛です。与えられた恵みを精一杯用いて愛して欲しいのです。
病気をしてからの私は日々嫉妬との戦いです。「あんなに元気で器の大きい人間だったら、もっと良い働きが出たのに。もっと愛せたのに。」なのに神が私に与えたものは、この弱い体と小さい器しかない・・・。
しかし私は完全に無力だと嘆くのは嘘です。神さまは弱くとも小さくともこの自分という器をお与えになったのです。そしてこの自分に忠実でいることはできるのです。
タラントンは才能ではありません。神の恵みによってのみ成り立っている、心の奥の本当の自分です。自分の器です。そしてこの自分に忠実でいることを、神は求めておられます。
世界で最も自分に忠実な存在、それが神です。神は愛です。神はご自分の愛に忠実です。その無限の愛の杯を私たちに注がれました。自ら人間となってこの世に来て、私たちの罪と死をその身に受けて苦しみ、十字架で死んで復活することで、自らの命を与えられました。私たちを死に至るまで愛されました。
また、最も自分に忠実な人間、それもイエスさまです。イエスさまは真のイスラエル、真の人間として、恵みによってのみ成り立つご自分の器に忠実に生きられました。自分の愛の器で精一杯愛し抜かれました。人類の罪を担って死に、復活させられました。そうして最も自分に忠実な生き方、最も人間らしい生き方の道を開かれたのです。
イエスさまの器。それはご自分の赦しの杯でした。イエスさまはその杯に最後まで忠実であられ、命がけで神の赦しを私たちに注いでくださったのです。
「小さい器でいい。自分に忠実に生きなさい。あなたに与えられた杯で精一杯注ぎなさい。わたしの愛と赦しを。」
愛を助ける
「背負いきれない重荷」マタイ福音書23章3節
2023年11月5日 聖霊降臨後第23主日(特定26)
「神と人への愛」を実行するため十字架への向かう道すがら、イエスさまは律法学者たちを批判されました。
「あなたは、愛の律法、という背負いきれない重荷をまとめて人の方に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本動かさない。人に愛を教えながら自分は実践せず、教えた人が苦しむ愛の重荷を助けることもしない。あなたの行いは人への愛ではなく、は人の目に映る自分への愛だ。聖句箱を大きくし、衣服の房を長くし、上座を好み、先生や父と呼ばれる自分を愛しているだけじゃないか」と。
私たちは聖書から、説教者から、教会から「神と人を愛せ」と教え続けられます。愛が大切なことは、もうイヤというほど頭では分かっているのです。ただ、その人を愛する力が湧いて来なくて苦しいのです。誰も愛の重荷を背負う力を与えてくれない。愛することができないという罪に苦しんでいるのです。
しかしイエスさまは言葉だけの律法学者とは違います。「重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私の軛は負いやすく私の荷は軽いからである。」(マタイ11・30) イエスさまだけは愛の律法を教えるだけではなく、十字架でその重荷を一緒に背負って下さいます。愛の重荷を担う力を与えて下さいます。
ゲッセマネでの「わたしの心ではなく、あなたのみ心のままに」という祈りをもって愛せない私たちを担い、愛そのものである神に結びつけて、私たちを愛の人に変えてくださいます。
自ら愛し、愛を教え、それだけでなく愛を担うことを助ける。これが「真のイスラエル」「真の人間」です。このお方に結ばれて、私たちも、他の人が神と人を愛せるように、その人を助けましょう。
「わたしが担ったように、あなたも人の愛の重荷を担いあいなさい。助け合いなさい。」
神さまにお返しする生き方
「神のものは神に返しなさい」マタイ福音書第22章22節
2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日(特定24)
これは「政教分離」ではなく論敵を打ち負かす場面です。皇帝への納税は是か否か。賛成ならユダヤ人を怒らせ、反対なら反逆罪です。
イエスさまはまず「ローマの銀貨を見せよ」と言い、ファリサイ派がそれを持っているのを見て偽善を暴きます。「お前も納税しているじゃないか!」そして銀貨に皇帝の肖像と「神の子」という銘が彫られていることから偶像崇拝を糾弾します。「この汚らわしい偶像を返せ」と。納税はするが、偶像崇拝はしない、と。
そして深い言葉。「神のものは神に返せ。」私たちは神さまの銀貨です。愛そのものである神さまの姿が刻まれているのです。ローマの銀貨は不平と共に、皇帝へ集められます。神さまの銀貨は本来、喜びと共に神さまへと集められるものです。聖餐式の奉献ではこう祈ります。「すべてのものは主の賜物、わたしたちは主から受けて主に献げたのです。」お金も命も、健康も家族も、自分自身もすべて、本来は神さまのものなのです。
自ら決めて自分を神さまにお返しする生き方。それはとても幸せなものだと思います。愛された愛を神さまにお返しして人を愛する。み言葉の恵みをお返しして、人に愛を語る。育てられた恵みを神にお返しして親を介護する。祈られている恵みをお返しして、神さまに祈る。お返しすればするほど、その人のうちに神さまの似姿が現れます。
もちろん簡単ではありませんが、この幸せをイエスさまが成就して下さいます。
イエスさまは最も人間らしい人間、最も幸せな人として、父にお返しする生き方を尽くされました。死の時にも「私の霊をあなたに委ねます」と自分をお返しし、復活後には、新しい命を委ねて「平和をあなた方に与える」人になりました。このお方の内に、最も人間らしい人間になりましょう。
一緒に喜んで欲しい
「さぁ、婚宴においでください」マタイ福音書第22章4節
2023年10月15日 聖霊降臨後第20主日(特定23)
「一緒に喜んで欲しい。」それが結婚披露宴に人を招待する親の気持ちです。二人が誓った絆を共に喜び祝って欲しい。これから末長くこの絆を見守って欲しい、と。
「婚宴の譬え」の王様も喜んで欲しいのです。王様は神様、婚宴は天と地の結婚、つまりイエスさまのうちに到来した神の国を表しています。家来は預言者とイエスさまです。招待を拒んだ客はイスラエルの指導者で神の国を喜ばず、大通りから呼ばれて集められた人々はイエスさまの呼びかけに応えて喜んだ弟子、私たちです。
最初の客は親の「喜んで欲しい」という心を想像もせず自分の都合を優先します。喜びを殺します。怒った王様は都を滅ぼします。(これは紀元70年の史実の反映です)
代わりに王様は町中の「善人も悪人も」皆集めて婚宴を一杯にします。悪人も神の国の婚宴に入れてもらったのです。その条件は一つ。神さまと一緒に喜ぶことです。そして喜んで悔い改めることです。
この喜びが「礼服」です。喜ばず不満に満たされた客が、自分のために披露宴に来る。これを王は見過ごさず追放します。これは無慈悲なのではありません。読者への真剣な呼びかけ、心からの願いです。「喜んでくれ」。(フィリピ4・4)
神の国に招かれた私たちには選択が迫られます。神と一緒に喜ぶか、自分だけを思って不平不満に終始するか。ともすれば誘惑に負けて「こんな状況なのに喜べるはずがない」と諦めがちです。
しかしイエスさまは常に喜びを選ぶお方です。神の支配を喜び、悔い改める悪人を喜び、裏切りと死の苦しみを前にしても「わたしの心ではなく、み心を」喜び、そして復活の命を喜び、それを私たちと分かち合うことを喜ばれるお方です。神とは喜びそのものです。
自分の中には不平不満が詰まっていても、このお方に結ばれるなら、私たちは喜べます。天地の結婚を喜ぶ父と一緒に喜べます。
イエスさまと一緒に喜びの式服を来て、聖餐式が表す、神の国の結婚披露宴に出かけましょう。
神さまにどう見られているか
神さまにどう見られているか
「どちらが父親の望み通りにしたのか」(マタイ21:31)
2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日(特定21) 聖餐式
自意識過剰に加えて、牧師の職業病として、つい「人の目にどう映っているか」を気にしてしまいます。「みんなに好かれる先生になってね」という「呪い」の言葉に縛られて神さまの目を忘れがちです。
今日の「ぶどう園の兄弟」の譬えでは、父親が息子たちに「働いてくれ」と願います。兄は「いやだ」と拒否しますが、あとで考え直して出かけ、弟は「はい」と従うようで、実際には出かけませんでした。
ここで兄は売春婦や徴税人、弟は神殿の祭司とされています。売春婦は人の目には最低な評判です。悪人です。しかし神さまにどう見られているか、つまりどれだけ愛されているかを悟り、悔い改めます。そして神のぶどう園に入り「愛の実り」のために働き始めます。
しかし祭司らは、人の目に重んじられる礼拝には精を出しますが、神さまにどう見られているかには鈍感です。「生きているだけで神に愛されている」ことを悟ってはいません。だから神の愛に悔い改めず、愛の国に入って働きません。
人を不快にさせない。人に喜んでもらう。大切なことです。しかし究極的には「人の目にどう映っているか」より「神さまの目にどう映っているか」が大切です。そして神さまの目にわたしたちは、生きているだけでかけがえのない存在、神の子どもとして愛されているのです。
この愛を伝えるために神さまは一人の人間、ナザレのイエスとなられました。売春婦や徴税人ら「悪い人」を愛して食卓を囲みました。
しかし人の目に重んじられた祭司たちからは「悪人」とされ、弟子たちからも見捨てられて、十字架刑で殺されました。人の目には最も呪われた死に方です。しかしこの方が復活したのです。人の目には処刑される罪人でも、父なる神の目には、死人の中から復活させるほど愛している、「かけがえのない独り子」なのです。
人間は本来、人の目にどう映っていても、神さまの目にはかけがえのない存在として映っています。そして信じて子なる神に結ばれた私たちもまた神の子供となり、愛の実りのために働く人となるのです。
イエスさまが語りかけてこられます。「誰の目が気になるっていうんだ? 父があなたに目を注いでおられる。わたしをずっと見つめてくださった、無限の愛の眼差しで。
愛と妬み
「わたしの気前の良さを妬むのか」マタイ福音書第20章15節
2023年9月24日 聖霊降臨後第17主日(特定20) 聖餐式
不公平な話です。
あるぶどう園の主人が日給一万円で朝一番に人を雇います。彼らは熱風にさらされ一日中頑張ります。主人は正午と三時と夕方にも人を雇って働かせました。
そして日が暮れて報酬をもらうとき、主人は夕方に少ししか働いていない者に一万円を渡しました。多く働いた者はもっともらえると思いました。しかし賃金は・・・同じ一万円。不公平だ! 無慈悲だ!
怒り心頭の人々に主人は慈しみをもって語りかけます「友よ・・・わたしの気前の良さを妬むのか。」この呼びかけへの答えは私たち読者一人一人が決めることです。
怒った労働者の中には気づいた人もいたと思います。最も大切な主人の愛を。主人はただ雇用契約を結んだのではなくて、一人一人を心から愛していた。そして働く出番と報われる喜びを与えたかった。そしてこの同じ愛を主人は自分にも注いでくださっていた。だからもう私は彼と比べなくてもいい。主人は自分を愛してくれている。それで十分だ。自分の妬みは主人の愛によって消えた。
私は自分たち四人兄妹への母の愛を思います。私は病気のおかげで他の兄妹のように多くの楽しい時を母と一緒に過ごせません。母が他の兄妹と仲良くしている写真を見ると、妬ましくも思います。しかし母と接するにつれて、自分が妬んでいるのは母の一人一人への愛であり、同じ愛が私にも向けられていると深く知り、私の妬みは母の愛によって消えていきました。
イエスさまも一人の人間として妬むこともあったはずです。なぜモーセやエリヤのように幸せに死ねないのか。しかしモーセやエリヤを愛した父の愛は自分にも向けられていると知ったとき、イエスさまの妬みは消え、父の愛に身を委ねられました。そして父の愛と一つになって人類を深く愛し、ご自分の命を私たちに与えたのです。
神はご自分を与えるほどに私たちを愛しておられる。この愛はどんな妬みをも消していきます。
Forgive But Not Forget 赦すことは委ねること
「借金を帳消しにしてやったのに」マタイ福音書第18章32節
2023年9月17日 聖霊降臨後第16主日(特定19)
クリスチャンは赦しの人。最も単純で、最も困難な道です。
自分が「赦せない人」は誰でしょうか。特にこの箇所では教会の「仲間」です。(18:28)
ただし赦すことは、なかったことにして、忘れることではありません。「もう赦した」と言いながら、忘れることができず、恨みと怒りに縛られていることがあります。抑圧さしている本音に苦しめられます。とくに相手に懺悔の気持ちがないときは、忘れることなどできません。
忘れなくていいのです。相手の犯した罪、自分の傷、そして今も続く苦しみ・・・無理に忘れようとすること自体が、更なる苦しみを産みます。忘れるのではなくそのまま受け容れるのです。そして神さまに委ねるのです。「神さま、私はあの人に傷つけられました。私はあの人が憎いです」。受け容れることが癒しの始まりです。そして委ねることが赦しと自由の始まりです。
ルーズベルト大統領の妻エレノアは、夫が重ねた不倫に対してこう言いました。「私は地獄耳ですから(すべてを知っています)、だから赦しますが、決して忘れません。」夫はもう赦す。しかしあの裏切りのことは決して忘れない。あの苦しみと怒りと復讐心は決して忘れられない。そう素直に認めて、受容れて初めて「それでも、もういい」という赦しが始まります。
赦すとは忘れることではなく、委ねることです。自分に嘘をついて忘れたふりをするのが赦しではありません。自分の心を受け入れて、神に委ねる。それが「心から兄妹を赦す」ことだと思います。(18・35)
譬えの王さまもまた、帳消しにした6000億円もの借金を決して忘れることはありません。自分の財産を削って、赦しを与えたのです。
しかし肝心の家来が帳消しにされた借金を忘れ、恐ろしい顔をして、仲間の借金を取り立てます。これが私たちの本当の顔です。そして最後には審きを受けます。
赦す側も赦された側も、その愛を忘れてはいけないのです。
神さまは私たちの裏切りの罪によって、傷つき苦しまれました。しかし、怒りと復讐をすべて委ねられました。それがイエスさまの十字架です。そして私たちは赦されました。神さまの傷つき委ねる愛に。
だから私たちは聖餐で主の苦しみを忘れず記念します。そして私たちも、忘れなくていいのです、心のすべてを受け容れて、神さまに委ねて、赦しましょう。自由になりましょう。楽になりましょう。
そしてイエスさまと共になりましょう。赦しの人に、クリスチャンに。
君が好き(低音質)
「多くの苦しみを受ける・・・と弟子たちに打ち明け始められた」マタイ福音書16章21節
2023年9月3日 聖霊降臨後第14主日(特定17)
(残念ですが、低音質です)
神学校同期の友は、54歳で早逝しました。年齢も社会経験も能力も私よりずっと上なのに、彼と私は対等な親友でした。彼が自分の葬送式に前もって選んでいた歌は松山千春の「この世で君が一番好き」でした。
この世で君が一番好き
この世で君が一番好き
ただ何となくこの気持ちを
今、伝えたくて
こんなに生きていたいなんて
こんなに生きていたいなんて
ただ漠然と心が叫ぶ
そう何度となく
この世で一番君が好き
彼が伝えたかった「君」とは誰のことなんだろうと思いました。一番にはやはり大好きだった奥さまでしょう。または参列した私たちのことかもしれません。または彼が大好きだったイエスさまのことか。または「イエスさまはあなたを大好きだよ」と伝えたかったのかもしれません。
この歌を選ぶ彼の姿は、イエスさまの姿に重なります。
「今、私は苦しみ死んでいく。本当は、こんなに生きていたいなんて…でも悲しまないで。私の人生はこの気持ちを今、あなたに伝えるために生きてきたんだ。この世で一番君が好き。」
イエスさまを通して神さまは弟子たちに伝えたかったのです。打ち明けたかったのです。「今から受ける苦しみと死には意味がある。それはあなたにこの気持ちを伝えるため。あなたを愛している。君が好き。」
弟子たちがこのメッセージを理解するのは復活のイエスさまに再会した後です。「あぁ、あの時イエスさまは、愛を打ち明けてくれていたんだ」と。
イエスさまの人生はこの愛の「気持ち」を伝えるためでした。私たちも同じ様に伝えましょう。「この世で一番君が好き。」
誓いを果たす
「この岩の上にわたしの教会を建てる」マタイ福音書16章18節
2023年8月27日 聖霊降臨後第13主日(特定16)
神さまとは、必ず誓いを果たす存在です。イエスさまは、弱さだらけのペトロを「岩」と呼び、彼の上に「わたしの教会」を建てられ、そして愛を誓われました。「陰府の力もこれに対抗できない。」(16:18)わたしは必ずあなたを守り通すと。
私たちはペトロの末裔です。神さまが必ず守り通す、と愛を誓われた共同体です。
だから私たちがペトロのようにどれだけ弱くて神さまを誤解し、疑い、裏切っても、それでも神さまは必ず愛の誓いを果たされます。「主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保って」くださるのです。(特定16特祷)
実際、ペトロの信仰告白には誤解がありました。彼が「メシア(油注がれた王)、生ける神の子」(18:16)に望んだのは、霊的な解放ではなく、軍事的独立でした。だから叱責されます。(16:23) また、ペトロは湖の上を歩く場面でもイエスさまを疑い、ゲッセマネでは眠りこけ、そして大祭司の中庭では愛する先生を裏切り、激しく泣いた人です。
しかしそれでも全ての場面でイエスさまは「ペトロを見つめられた。」(22:61) つまりイエスさまはペトロを決して見捨てられず、誓いを反故(ほご)にされず、誓いを果たされました。誤解と疑い、弱さと裏切り。これらにも関わらず復活の主イエスさまは、ペトロを赦して世界に広がる教会の岩にされたのです。
同じように神さまは最初の愛を貫いて私たちを正し、信じ、強め、赦し、守ってくださる。これが私たち、ペトロの末裔への神さまの誓いです。「天の国の鍵」であり、「結んだり解いたり」して人に伝える神の愛です。赦しとは、過ちにも関わらず最初の愛を貫くことです。
私たちは聖餐式で告白します。「主イエス・キリストを信じます。」ですが実態は弱く、誤解ばかりで、愛を裏切り、死の力に負けてしまいます。しかし神さまは、何度でも、悔い改める人を赦し、愛の誓いを果たさます。これが新しい誓約(新約)です。この誓約を感じるために聖餐式では「あなた方および多くの人のために流す、わたしの新しい契約の血」を飲むのです。
「あなたがたはペトロの末裔。愛を誓ったわたしの教会。安心しなさい。わたしは必ずあなたを守り通す。最初の愛を貫き通す。」
愛する人のための祈り
2023年8月20日 (特定15) 祈りは自分のためよりも愛する人のために祈るとき、最も強くなります。
この異邦人の「カナンの母」もそうでした。愛する娘が悪霊の様な力に「ひどく苦しんでいる」。愛する娘のためなら何でもする。何でもしてきた。昼夜、必死に祈ってきた。娘には「大丈夫。お母さんが何とかしてしてあげるから」と言って励ましていたでしょう。
そしてこの母は自分たちを蔑むユダヤ人の癒し人を「ダビデの子」と告白してまで助けを求めました。「主よ、憐れみをお与えください。キリエ・エレイソン!」と叫び続けてついていくのです。
しかしイエスさまは背を向けます。「わたしはイスラエルの家にしか遣わされていない。」これは「ケチ」ではなく、旧約時代からの神の約束を成就する正しい順番です。
それでも母の叫びは鎮められるばかりか、より一層強くなります。今度は前に出てひれ伏し「どうかお助けください。異邦人の犬でもいい、憐れみのパン屑をください。愛する娘が癒やされるまで、絶対にあなたの前からどきません」と。
イエスさまはこの強い願いを受け入れました。「大きな信仰だ。神はあなたの願いを聞いた。」そして娘は癒されたのです。
愛する人のために祈る。これが「神の国」を来らせます。イエスさまはこの母の姿に、自分を重ね合わせたのではないでしょうか。イエスさまは愛する弟子と(私たち)の癒しを願い、祈り、実行されます。「必ずなんとかするから」と、私たちを罪の病から癒すために、罪を背負って死なれました。絶望の病から癒すために十字架で絶望されました。死の力から癒すために、死なれました。そして復活の命の癒しを与えてくださるのです。イエスさまは今日も聖餐式で私たちのために願い、祈り、癒してくださいます。
「私が必ずなんとかする。愛するこの人が癒やされるまで、私は絶対諦めない。父なる神よ、私を憐れんで下さい。主よ、どうかお助け下さい。」
教会を変える一人の祈り
「水の上を歩いてそちらに行かせてください」マタイ福音書14:28
2023年8月13日 聖霊降臨後第11主日(特定14)
教会は一度も順風満帆だった時はありません。現代日本でも、宗教改革でも、中世でも古代でも、マタイ福音書の時代でも教会はいつも「逆風の波に悩まされている舟」です(14:24)。迫害・弾圧、伝道の失敗、分裂、対立、教会離れ、愛の欠如、献金不足、貧富の差……私たちの教会の問題は既に聖書に描かれています。それが希望でもあります。
マタイ14章の「水上歩行」は譬えです。「教会が悩まされる時、あなたはまず一人になり、イエスさまだけを見つめ、水の上を歩くように祈りなさい」と。
波風に悩まされる船に、イエスさまはその波の上を歩いて来られます。「安心しなさい。私だ。」そこでペトロは願います。「もしあなたなら、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスさまを証明するためでもあり、「波風に苦しまないあなたのところに行かせてくだい」という願いです。
「来い」と呼ばれたペトロは舟から出て水の上を一歩一歩進みます。しかしすぐにイエスさまから目をそらせ、波風に溺れ死ぬ不安に駆られた瞬間、沈みます。ですが「主よ、助けてください」とヨナのように叫ぶとイエスさまは手でしっかりと掴んで下さいます。「なぜ疑ったのか。」そして船に連れ戻されると、波は静かになります。
支配欲、不信感、虚しさ、愛の欠如、疲れ・・・。問題ではなくイエスさまだけを見つめ、イエスさまと親しく心を通わせて波の上を歩く。気を奪われて沈んだとしてもいい。主が必ず掴んで下さる。これが、教会が必要とする個人の祈りです。
そしてイエスさまに連れられて愛する舟に帰ってきたとき、風は静まります。一人の祈る人が教会を変えるのです。
「さあ、あなたもその船を出て歩いて来なさい。沈んでもわたしが掴むから。ただわたしだけを見て、一人で歩いて来なさい。」
支配欲からの脱出、出エジプト
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる出エジプト」 ルカ福音書第9章31節
2023年8月6日 主イエス変容の日
「主の変容」でイエスさまは、モーセとご自分の最期、つまり死について語り合っているときに光り輝きました。この「最期」のギリシャ語は「出エジプト」であり「脱出」です。つまりイエスさまは出エジプトの神として死んでいかれるのです。
神はあの過越の夜、海を割いてエジプトの支配下にあった民を脱出させ、そして支配者ファラオの軍勢は海で滅ぼされました。そして民を「奴隷の家」から自由な地へと導かれました。(出20:2)イエスさまは支配を滅ぼす神です。そして人間を苦しませるすべての支配を滅ぼして、人間を救う神です。
身近にはどんな「支配」があるでしょうか。ウクライナにとってのロシア、支配的な男性、上司、親族、信徒も司祭もいるでしょう。支配された人は、相手の都合の良い「奴隷」のように感じて苦しみます。
私を含め、支配欲は「自分の思い通りにしたい」と欲します。自分の人生を都合のようにしたい。だから周りの人、家族、隣人、教会の人間関係でさえ自分の理想どおりにしたい。皆が持っている欲です。
しかしイエスさまは支配を滅ぼす神です。エジプトの支配に苦しむモーセたちに降られたように、神は罪と死の支配に苦しむ私たちに降られました。人間イエスとなられました。そして私たちの代わりに支配を受けて死ぬことで、支配を滅ぼし、私たちを脱出させたのです。
家臣の命の代わりに自らの首を差し出す戦国大名のようです。
海は死の象徴です。イエスさまの十字架の海に、神は支配の軍勢を沈めて滅ぼし、私たちを洗礼の海を潜らせ、人生の荒れ野を聖餐のマナで養い、自由の地へと導かれます。愛は支配を滅ぼし、解放し、脱出させて自由にします。
支配からの自由の完成、それが復活であり、神の国です。
イエスさまが光り輝いたのは、新しい出エジプトである十字架の向こう側に輝く、神に支配される自由な命を見たからだと思います。
イエスさまは必ず悪い支配を海に沈め、私たちは洗礼の海を潜らせて自由にして下さる。洗礼の恵みを信じ、明るい希望をもって生きていきましょう。出エジプトの教会として。
旅の成就
「商人が良い真珠を探している」マタイによる福音書第13章23節
2023年7月30日 聖霊降臨後第9主日 (A年特定12)
真珠商人の譬えでは、商人が良い真珠を探し求めて旅をします。それが何日何年続いたか、とうとうある店で見つけます。すると商人は喜んですぐに持ち物を全て売り払い、それを買いました。長いあいだ探し求めてきた日々が成就したのです。
この譬えは、探し求める信仰生活が成就する喜びと、そのためには喜んで全てを手放す覚悟を描いています。
学校を、仕事を、結婚相手を、教会を・・・小さいことから大きいことまで、人間はいつも何かを探している存在です。健康を探し、安心を探し、楽しみを探し、幸せを探しています。
直接「神を探す」とは思わなくとも、私たちが探す幸せは、いつも幸せの源である神さまの中にあります。神さまの中で初めて、探し求める心は「もう探さなくてもよい平安」を見つけます。「主なる神よ、私たちの心はあなたの中で安らぐまで、安らぐことはありません。」
この安心がイエスさまに始まった神の国です。神の国に入る手段はイエスさまご自身です。父を探し求めてそれが成就したイエスさま。このお方のうちに最も人間らしい人間性、探し求める心は成就しました。イエスさまに結ばれるなら、私の探し求める心もまた、父を見つけて成就するのです。
真珠商人のようにイエスさまは私たちのために、私たちと共に、父を見つけ、探し求める日々を成就して下さいました。
そして私たちのために父を見つけたとき、イエスさまはご自分の命を十字架上で売り払い、復活の安息を買われました。だから私たちも自分の命を売り払う覚悟を持ちたいのです。
私たちの探し求める日々は、必ず成就するのですから。
一緒に忍耐しよう
「両方とも育つままにしておきなさい」マタイによる福音書13章30節
2023年7月23日 聖霊降臨後第8主日 (特定11)
あの人さえいなければ、と思う「魔の瞬間」があります。自分は正しい!! と思うときほどそう思います。親族でも、友人でも、教役者団でも、教会でも・・・。そんなこと考えてはいけないと思うのですが、そう思えば思うほど執着してしまいます。
ほっとするのは、イエスさまの弟子たちや、マタイ福音書を伝えた初代教会も同じだったことです。
「毒麦の譬え」は教会の譬えです。主人が良い麦を撒いた畑に、毒麦が出てきました。僕(しもべ)たちは「こんな毒麦さえなければ!」と息巻いて主人に「抜き集めましょう」と願いますが、止められます。「良い麦も一緒に抜いてしまうからやめとこう。刈り入れまで待とう。その時が来れば、あなたたちではなく、私が遣わす者に刈り取らせて、それから毒麦を束ねて焼くから。」
僕たちはイライラしています。目の前で毒麦が実っているのです。「自分なら毒麦だけを引き抜くことができます!」 しかし主人は「忍耐して刈り入れ時を待とう」と戒め続けます。いつまで忍耐しなければいけないのか。私たちは短気なのですぐ心が折れ、絶望し、諦めます。短気は人間の弱みです。
しかし最も忍耐して、苦しんで、刈り入れを待っているのは、僕たちではなく、主人です。
僕たちは毒麦に執着しますが、主人は良い麦に目を注ぎます。僕たちには見えませんが、主人には見えています。毒麦の根に絡み付いている良い麦が。だから待っています。慈しみの心で毒麦の存在を忍耐しています。もし僕たちが焦って良い麦を一本でも抜いたなら、主人はどれだけ悲しむことか。
これは十字架の忍耐です。毒麦に絡みつかれた良い麦のために、イエスさまは毒の存在をその身に受けて忍耐しておられます。そして刈り入れの日には、良い麦を喜んで収穫し、今まで忍耐してきた毒は焼き尽くされます。
だからイエスさまはユダをも晩餐の席に着くことを許されました。毒を抜かずに忍耐されました。最後までユダを慈しまれたのです。
神は慈しみ深く忍耐強い。だから私たちにも慈しみ深く忍耐強い人生と、教会生活を送るように励まされます。しかも私たちと共に苦しみ耐えながら、励ましてくださいます。喜びの刈り入れの日まで。
「あなたは焦って抜かなくていい。わたしと一緒に忍耐しよう。慈しみ深く待とう。永遠の一瞬の後に来る、喜びの刈り入れの日まで。」
愛の根を張り巡らす
「良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて悟る人である(13:21)。この「悟り」は地上から逃げる神秘体験ではありません。
逆に「天の国は近づいた」と、地上で生きる自分とその根っこにまで 近くに来てくださった神さまの愛を深く知ることです。私を愛して私のために命を与えてくださったイエスさまを信じて、噛みしめて、理解して、それを日常で実践する生活のことです。これが種まきの譬えの中 の「根を張る」という表現が励ますところの、神の愛の悟りです。
まず「道端」は何も信じず理解しません。ほんの少しでいい。愛を信じる。それが救いのはじめです。
そして「石だらけの土」。順風満帆の時は神の愛を感じますが、不幸や病気、躓きや不利益に会うと、神の愛を感じられず、苦しみます。
それに対して「根を張る」ことが 励まされます。それは祈りによって、 生活の隅々にまで染み渡る神の愛を信じて、理解して、実践することです。目覚めた時、顔を洗う時、 掃除をする時、働く時、人と話す時、食事をするとき、眠る時・・・。 いつでもどこにいても、誰と共にいても、私たちは神さまに愛されている。そう仮定して、信じて、行動する。そうすれば苦しみに襲われても忍 耐できます。非常時を生き残る、 神の愛の防災意識です。(もちろ ん私は悟ってなんかいません。)
小さい祈りでいい。例えば、目を覚ました時に十字を切ること。顔を洗う時に微笑むこと。掃除をしながらでも聖歌を口ずさむこと。働く時にはイエスさまと一緒に我を忘れて働くこと。ただ手を合わせること。電車でただ一言「父よ」 と祈ること。悲しむ人と話すとき共に悲しむこ と。一日の働きを感謝すること。美味しいご飯、 楽しい時間を感謝すること。そして疲れて横になって眠るときには、神さまが与えたこの体で、ただ、呼吸すること。なんでもいいのです。神さまへの祈りの心を実践するのです。このような実践が愛を悟らせます。
このように生活に神の愛を根付かせた「良い土」は、父へ生活のすべての時を委ねます。「思い煩うな。天の父はあなたの必要を知っている。明日のことは明日自らが思い煩う」 (6:25-34) 。神さまの愛を深く信じて、 悩みごとを委ねる、という実践です。
イエスさま自身、父の愛を自分の人生の隅々に染み渡るまで信じて、深く理解して、根を張らせて、それを実践して十字架へ向かわれました。だから神さまに見捨てられたような十字架の絶望の中でも、理解を超え神の愛をそれでも信じていました。その証拠が復活です。
主は言われるでしょう。「私の愛をあなたの根っこに張り巡 らせなさい。私は必ずあなたの人生を実らせて、喜び歌って刈り取らせてあげるから。」
復活を背負って
「自分の十字架を担う」マタイ福音書10章38節
2023年7月2日 聖霊降臨後第5主日 (A年特定8)
世間一般的に「十字架を背負う」とは「生涯消えない罪や苦しみ」という意味です。死亡事故を起こした罪や、津波で家族を死なせてしまった後悔は、「一生背負っていかねばならない私の十字架だ」と。
しかし復活信仰によって書かれた聖書では、十字架は常に復活と表裏一体です。だから十字架を担うことは、復活をも担うことです。古い自分に死ぬだけではなく新しい自分に生きることです。十字架のイエスさまと一緒になって罪を犯す自分に死に、復活したイエスさまと一緒になって新しく生きていく決心です。自分のためではなく、神のために生きる選択です。
だからこの言葉の直前の「敵対」は「むやみに信仰を持たない家族に敵対せよ」ではありません。そうではなくて、「あなたが」自分の十字架と復活を選び取るか、選び取らないかには、絶対的な差がある。他の人は関係ない。家族でさえ代わることはできない。何よりも先に「あなたが」懸命に十字架と復活を選び取れ、と言いたいのです。
だから「私のために命を失う者はそれを得る」のです(10:39)。主の十字架と共に古い自分を失った者は、主の復活に与かって新しい自分を得るのです。
パウロも訴えます。「罪に対しては死んだ者、神に対してはキリストイエスにあって生きている者と思いなさい。」(ローマ6・11) 神さまご自身が私たちを愛して、私たちの罪を引き受けて死なれた。そして私たちを復活の命の中に受け入れてくださった。だからイエスさまに結ばれたあなたも、自分の罪に死に、神に生きることを選び取れ」と。
ただし自分が人に付けた傷は残ります。新しく生きるとは、罪を忘れて自分だけ自由になることではありません。どんな罪や過去をも全てを受け止め、しかし新しい心で、愛し直すことです。愛し、謝罪し、償い、責任を取る。そして償いきれない罪をも、常に自分に死んで神に生きることで、償い続けていく。人への償いもまた、十字架と復活を選び取ることで続けていけるのです。自分が傷つけた人の前で、私たちは何度も死に、そして何度も生き返って償い続けていくのです。
西洋美術で、復活のイエスさまが掲げる十字架には、旗がついています。これは罪と死に勝った神さまの軍旗です。私たちはこの軍旗に従う兵士です。そしてこの方の後についていく私たち自身がかかげて進む十字架もまた、復活の勝利の軍旗なのです。
自分が担う十字架は復活の軍旗であると信じ、人を愛し直す新しい自分、復活の命に生かされる自分を選び取りましょう。
「十字架と復活の旗を取って、私についてきなさい。私たちは勝った。罪と死の古い私たちに死んで、愛と命の新しい私たちを生きよう。」
神さまの雀
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」マタイ福音書10章29節
2023年 6月25日 聖霊降臨後第4主日 (A年特定7)
イエスさまは身近な自然や生活に父なる神を見て、教えられました。「ほら、この市場では雀が二羽600円だ。安いね。でもこんなに小さくて安い雀でさえ、父なる神の御心に貫かれているんだよ。ましてあなたは何十倍も大きくて価値があって、もっと強く確かに御心に貫かれ、守られ、愛されているんだ。だから何も誰も恐れてはいけないよ。」そして弟子たちは雀を見るたびに、世界の隅々にまで貫く神の御心を思い、信仰を強くしたのです。
ただしこの「御心の確信」の背景には迫害があります。母体のユダヤ教から迫害されつつ、負けずに福音宣教に出てクリスチャンを励ます言葉です。ここで三度繰り返される「恐れるな」は、自分たちのことを嫌って暴力をふるう人を恐れるな、なのです。
迫害はいつもあります。キリシタン時代にも、現代のアフリカ、中国、北朝鮮でも・・・。教会は襲われ、聖書を持っているだけで捕らえられ、拷問を受け、殺される。
だからイエスさまは「それでも恐れるな。あなたの命はその隅々まで、わたしの御心が貫いている」と宣言されます。そしてこれを信じるクリスチャンは、厳しい現実だからこそ、より強い信仰を持ち、それを現すようになります。
私たちも福音宣教に呼ばれています。「あなたも私も神さまの雀、イエスさまはあなたのために死んで復活した」と。宣教師のようでなくていい。人と一緒に祈る。自分一人で祈る。人を教会に誘う。洗礼・祝福に招く。手紙を書く。プレゼントを送る。ただただ目の前の人の必要に仕える。そんな小さい「雀の宣教」でいいのです。
イエスさまも祈って十字架に向かわれたのだと思います。「父よ、一羽の雀のように御心に貫かれたこの命、あなたに献げます」と。
悪に負けない
「汚れた霊に対する権能」マタイ福音書10章1節
2023年 6月18日 聖霊降臨後第3主日 (A年特定6)
イエスさまは十二使徒に悪霊に対する権能、つまり支配力を授けられました。この力は神さまの愛の支配が来た象徴です。世界の王であるイエスさまの愛の力です。「天の国は近づいたと宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払え。」(10:8)
もちろん現実は悪に負けてしまいます。病気は癒されず、死は避けられず、差別は無くならず、悪に縛られたまま。権能を授けられた弟子たちでさえ悪霊を追い出せません。(17:19)
しかしだからこそ信じます。「それでも私たちには悪に対する神さまの力がある。神さまが悪に勝ってくださる」と。イエスさまは復活した。これが神さまの勝利の動かぬ証拠です。
悪に負けない。それは結果ではなくて過程です。病気が治らなくとも小さな健康を見出し、死が避けられずとも今の命を輝かせ、たとえ死んでも復活の再会を希望し、たとえ無くならなくとも差別と戦い続け、悪の束縛を断ち切り続ける。または人が悪に負けないように助け続けることです。
アナウンサーで、歌舞伎役者の妻だった小林麻央さんは、こう綴りました。「例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。『まだ34歳の若さで、可哀想に。小さな子供を残して、可哀想に』でしょうか??私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。だって、人生は一度きりだから。」
悪に負けない。それは病気の色に支配されない、ということです。自分の人生はもっと色どり豊かなのです。
確かに病気そのものには、結果的には負けて。死ぬかもしれない。人の死と命は思うようにはできず、その結果は「み心のままに」と神さまに委ねて受け入れるしかありません。
しかしその過程は「夢と愛と宝物」を見つめて、楽しんで、感謝して、色どり豊かな人生にできます。病と死の「悪に負けない」ことはできるのです。それが「悪霊に対する権能」です。
悪に負けない。一人一人色どり豊かに愛する神さまの力を信じ、今を生きる喜びを感謝しましょう。結果は分からない。でも今、この朝は、自分たちのまま、ユーカリスト(感謝の聖餐式)を献げましょう。ちょうどイエスさまが、死ぬ結果は変えられなくとも、使徒たちと感謝することを選んだように。
「明日わたしは死ぬ。しかし今ここであなたと共に感謝する食卓は、死の色に支配されていない。あなたを愛した私の色どり豊かな人生だ。だから感謝しよう。どんな悪にも負けずに。」
一体になって受け容れてくださった
「主は・・・父と一体です」(ニケヤ信経)
2023年6月4日三位一体主日
私たちは毎週、「主イエスキリストは…父と一体です」と言って信仰を告白します。「三位一体」は抽象的な矛盾(1+1+1=1)という言葉遊びではありません。父と子(と聖霊)が「一体」かどうかに、私たちの救いがかかっている最重要の事柄です。
救いとは、神さまを裏切って遠く離れてしまった人間が、再び神さまご自身に受け容れられ、赦され、解放され、再創造され、派遣されることです。
そこで神さまは自ら、ナザレのイエス、という人間となる「受肉」によって、ご自分の内に罪ある人間性を受け容れられました。イエスさまは100%人間であり、100% 神です。そして人間の罪の結果の死を受け容れ、神の命に甦り、人間を神の内に受け容れられました。
ここでもしもイエスさまが、どれだけ愛を行った素晴らしいお方であったとしても、神ご自身でないのなら、私たちは神さまに受け容れられたことになりません。その方は人間であって神ご自身ではないからです。だから私たちはイエスさまは神だと信じます。「アバ、父よ」と呼ばれた神と一体の子として、神ご自身だと信じます。
卑近な例で言えば(現実には無理ですが)夫婦が完全に一体なら、片方が進んで受け容れたお客なら相方は、それがどんな人でも、進んで受け入れ流でしょう。でも喧嘩中なら「そんなん知らんわ」となります。(笑)
これと同じように洗礼を受けた人は、聖霊の働きによってイエスさまに受け容れられ、イエスさまと一体の父にも受け容れられます。そして父と子と聖霊という「交わりとしての神」の命に入り祈り、愛するのです。
父と子が一体だから、受け容れられた。この救いを讃えよう。
激しい風のような決心
「突然、激しい風のような音が」(使徒言行録第2章11章)
2023年5月28日 聖霊降臨日
先週はイエスさまが死の力に勝って世界の王座に就き、その愛で支配し始めた「昇天」を祝いました。
そして今週は「聖霊」と呼ばれる「愛の支配力」が降りてきた日を祝います。聖霊は「激しい風」のようだったそうです。この聖なる風に吹かれた弟子たちは「霊に満たされて」生き生きと外国語を語り始め、外国人は「神の偉大な業」に驚きます。「母語」が表すとても個人的な領域で、激しい風のように力強い神の業が働いたのです。
神の業とは「赦しと解放」です。二つは同じ(アフェシス)です。愛してくださる神を裏切り、神と人を愛さないとき、私たちは罪を犯します。さらに、罪を犯せば犯すほど人は束縛されます。「罪は熟して死を生む」(ヤコブ1:15)。復讐心、償う責任、人間関係の悪化、罪の意識、良心の呵責、という罰によって束縛され、人は心も体も死んでいくのです。
しかし神さまはそれでも私たちを愛してくだいます。その赦しと解放の意志は「激しい風」のように強いものです。神の業は罪を赦し、人を罪と死の支配から解放し、愛の支配に移します。人間を自由にし、愛の人に変えてくださるのです。
私たちの罪を赦して死から解放するため、神さまは人間イエスさまとなりました。そして「激しい風」の聖霊に突き動かされ、十字架で罪の罰を受けて死んで罪を赦し、新しい命に復活して死の束縛から私たちを解放してくださったのです。
この神の業は「激しい風」のように強いイエスさまの従順と意志によって成されました。ゲセマネの園でのように、激しい葛藤を通して、父の御心に従い、赦しと解放を成し遂げられました。
この罪と死の束縛を吹き飛ばす力強い「激しい風」である聖霊が弟子たちに降ったのです。そして弟子たちは激しい風のような赦しと解放への意志に燃え、殉教を恐れず、世界の人々に神の愛の支配を告げていきました。
聖餐式でぶどう酒に聖霊の風が吹き、「罪の赦しを得させるわたしの新しい契約の血」とするように、赦しと解放の激しい風は私たちに降ります。赦され、解放され、自由になり、愛する人になりましょう。イエスさまの激しい風のような強い意志と従順に結ばれて、目の前の人を赦し、解放しましょう。
イエスさまは激しい風ように強い自分の従順をこの教会に吹き入れて語られます。「罪はもういい。わたしは十字架で罪の責任を取り、あなたを赦した。死の束縛ももういい。わたしが死から復活して、あなたを解放した。あなたは自由だ。必ず愛せる。だから、今度はあなたが神さまの激しい風になりなさい。何にも負けずに人を赦し、人を解放する、強く激しい神さまの風に。」
愛による支配
「イエスは(天に)上げられた」(使徒言行録第1章9節)
2023年5月21日復活節第7(昇天後)主日
英語でイエスさまの昇天は「アセンション(昇る)」と訳されます。また、チャールズ3世のように国王が王位を継ぐことも玉座に「昇る」姿から「アセンション」と呼びます。だから「昇天」とはイエスさまが全世界の王座に即位し、その愛で治め、支配し、統治し、管理し始めた、という意味を持ちます。
ただしイエスさまはプーチンや金正恩のような独裁者ではありません。恐怖ではなく、愛によって支配されます。ご自分の命を与えるほどの愛で、自分では管理不能な私たち人間を、完全に支配してくださいます。イエスさまの愛に完全に支配されて心から神と人を愛せる人生、それはどれだけ幸せか。
イエスさまは私たち人間を愛して、100%の人間となった100%の神です。神と人間は競合しません。神さまが人間を支配すればするほど、人間はより罪から自由になります。より人間らしく、より自分らしく、愛することができるようになります。
イエスさまは私たちの王になってくださいました。私たちを罪から解放しようと罪を全て引き受けて死に、しかし復活して命の力で私たちを支配してくださいます。そして昇天(アセンション)によって私たちの人間性を神の前に引き上げ、愛の人間に変えてくださいます。
だからイエスさまのアセンション(昇天、即位)は、喜びです。良き統治、良き時代の始まりです。
しかし、例えばネットやテレビがない僻地に住む人のように、王の即位の事実を知らない人はその喜びを知りません。だから知らせる人が必要になります。それが福音を告げる伝令、「私の証人」とされた私たち、クリスチャンです。(使1:8) そして私たち証人に力が与えられるのが「聖霊降臨」です。
伝道については「私にはそんな力はない」と思いがちです。しかしイエスさまは「神の王座からの力を待て」と言われます。(1:4)これは私の力ではなく、イエスさまが全人類を治められる、愛の力です。
だからまず相手が神の愛に治められるように祈りましょう。「あなたに聖霊が降りますように。神の愛があなたを治め、悪から自由にし、命を輝かせてくださいますように。」
王座に昇られたイエスさまの支配を確信し、その喜びを伝えられるように、聖餐式で私たちも心を天に昇らせましょう。
「心を神に」
「主に心を献げます」
必ず分かるから
「羊はその声を聞き分ける」ヨハネ福音書第10章4節
2023年4月30日 復活節第4主日
いちばん大切なもの。それが分からなくなる時があります。教会生活においてもそうなり、とても不安になります。
信徒数の減少、高齢化、青年への継承、教会会計の赤字、説教の貧困、伝道の不振、そして最も苦しい、人間関係の悪さと自らの祈りと信仰の浅はかさ。
これらの現実に面すると、イエスさまが見えなくなります。
それはちょうどクレオパや、トマスや、マグダラのマリアのようです。復活のイエスさまが見えませんでした。しかし、弟子たちはイエスさまが語りかけられると、聴き分けました。
「羊と羊飼い」の譬えも同じです。羊たちは不安です。盗人や強盗(10:2)が騙して殺そうとしているのです。しかし羊たちは大丈夫です。なぜなら羊飼いの声を聞き分けられるからです。羊飼いが1匹1匹の名を呼べば、羊は羊飼いにだけ付いていくからです。
私たちはイエスさまの声を聞き分けられる。この確信と安心が私たちに与えられています。どれだけ不安で、心が暗くなっても、決して混乱しない。迷わない。私たちを愛して、心配して、探してくださる方が語りかけ、私たちはその声を聞き分けることができる。そのお方の背中だけを見て聞き従えば、必ず神の牧場に行けるのです。
その声はパン裂きの音の中に聞こえます。私たちの罪を受けて引き裂かれ、そして自ら裂いて私たちに新しい命を与えてくださる、羊飼いの声です。
「わたしがあなたの罪を背負ったのをあなたは知っている。だから、安心しなさい、あなたは必ず聞き分けることができる。それが教会生活でもっとも大切なことだよ。そのほかのことは、そこから見えてくるさ。」
渡される神さま
「パンを裂いてお渡しになった」(ルカ福音書第24章30節)
2023年4月23日 復活節第3主日
「エマオでの顕現」と呼ばれるこの箇所では、弟子のクレオパともう一人が、故郷へ帰る道で、ある人と出会います。その人は悲しい顔をしている二人に旧約聖書を解き明かし、救い主の死と復活について熱く語ってくださいました。そして晩の食卓で「パンを裂いてお渡しになったとき」クレオパたちの心の目が開き、その人は実は復活したイエスさまだと気づきます。
なぜパンを割いて渡す動作がクレオパたちの心の目を開いたのでしょうか。それは、イエスさまから自分にパンが「渡される」ことのうちに、主の晩餐を思い出したからです。そして主の晩餐が、イエスさまの犠牲の死を意味していたのだと悟ったのです。「いま目の前に生きておられる方は、死に引き渡されたイエスさまだ」と。
つまり「渡される」パンのうちに「死刑に引き渡された」イエスさま(24:20)が現れるのです。「渡された」パン、そして死に「引き渡される」の二つの言葉は「渡される、ディドオーミー」という同じ語源を持ちます。パンが弟子に渡されるように、イエスさまは死刑に引き渡されました。(ルカ24:20) その全く受け身の姿が、罪と悪を我が身に受けて死なれた姿と重なるのです。
イエスさまは「渡される」神さまです。弟子とご自分の民に拒まれ、敵に渡され、殺されました。私たちの罪を代わりに受け、犠牲となって「死に渡され」ました。それは私たちが「死に渡され」ないためです。逆に、渡されたイエスさまの命によって、わたしたちが生かされるためです。罪が赦され、すべての悪の束縛から解放されるためです。
イエスさまは、罪と死の奴隷になっていた私たちを解放するために、自ら選んで「身代金」となって渡された神さまです。そして犠牲になって渡されたその命を受けて、私たちは復活の命に生かされます。
愛する人のために自ら選んで「渡される」存在となる。自らを与える。これが神さまの愛です。自らを無にして、全く受け身になって、ご自分の命をお与えになる愛です。
これは私たちの礼拝生活、聖餐式そのものです。人生の旅路で「暗い顔」になるとき(24:17)、復活のイエスさまは聖書を通して、その愛で私たちの心を燃やされます(24:32)。そして聖餐で渡されるパンのうちに、「渡される存在」となってご自分をお与えになられます。 私たちに「渡される」のです。
渡されるパンになる神さま、イエスさまが語りかけてこられます。
「あなたのためなら、わたしは何にでもなる。パンにでもなる。誰にでも、どこにでも渡される。全く受け身にもなる。そしてあなたの代わりに死に渡され、あなたに命を渡す。わたしにとってこれ以上の喜びはない。あなたが生きるための食べ物になるのだから。わたしを受け取り、食べなさい。そしてあなたも復活の命に生かされて、渡されるパンのようになって人を愛しなさい。」
復活の求道心
「私は決して信じない」 (ヨハネ福音書第20章25節)
2023年4月16日 復活節第2主日 聖餐式
これは「トマスの疑い」の箇所の言葉です。ほかの弟子たちが復活のイエスさまに出会った日曜日、トマスはそこにいませんでした。だからトマスは憤慨して言います。「自分でイエスさまの手の傷を見て、その脇の傷に手を入れてみなければ、私は決して信じない。」
この「信じない」は、現代人が「私は神がいるとは思いません。」と冷静に言う無神論ではありません。あの時代、神の存在を疑う人は皆無でした。そうではなくトマスの疑いは熱い求道心の表れでした。「イエスさまに会いたい。他人ではなく、自分自身がイエスさまに会いたい。私は納得するまで決して妥協しない」という「求道心」です。イエスさまを追い求める心、恋い慕う心、強い憧れです。
私にも皆さんにもあると思います。「神さまを体験したい。イエスさまに会いたい。生きる意味を、生きる苦しみの意味を知りたい。復活とは何か。復活の命に触れたい」。
この求道心を神さまは「よし」とされます。そして翌日曜日(ちょうど毎日曜日の聖餐のように)今度は逆にトマスを愛して、求めて、会いに来られたのです。そして「わたしの傷を見るなり、触れるなり、何をしても良い。ただ、わたしを神だと信じる人になりなさい。」そう言って自らを差し出されました。十字架での裸の姿のように差し出されました。そこにトマスは自分の罪を受けて十字架で死んだ神さまを、自分を与えられた神さまを見たのです。
ここにトマスの求道心は成就しました。そこで即座にトマスは信じます。「私の主、私の神よ!」(20:28)。妥協しなかったからこそ、トマスは自分の体験として、復活のイエスさまのうちに神さまを見たのです。
求道心が成就した喜び。この喜びをほかの「求道者」にも体験して欲しいと、トマスは伝道旅行に出ます。そして地の果てのインドに至るまで、この喜びを伝えました。殉教に至るまで、伝え続けました。
私自身そうですが「聖書は知っている。聞き飽きた言葉ばかりで眠い」「聖餐式はいつも同じで退屈だ」。そう思うとき、私たちにはトマスが必要です。人智を超える神が「眠くて退屈」なはずがありません。他人の言葉や自分の固定概念で妥協しているだけです。神秘の神は人間の妥協を蹴散らし、本物の求道心を呼び覚まします。
聖書と聖餐を通して復活のイエスさまを心から求めましょう。固定概念に妥協せずに求めましょう。そうすれば神さまは必ず私たちの求道心を成就してくださいます。イエスさまと必ず会うことができます。それはイエスさまご自身が私たちを追い求めて、今もここにきておられるからです。
やり直しの人生
2023年4月9 日 復活日 (A年) 人生には取り返しのつかないことがあります。相手がすでに亡くなっている場合はとくにそうです。「あんなことしなければよかった。もっとこうすればよかった。今はもう、遅い…」
自分たちの地元であるガリラヤで、弟子たちはイエスさまに出会い、寝食を共にし、共に旅をしました。しかしエルサレムの都では、弟子たちは先生を見捨て、先生は処刑されました。だからガリラヤでの思い出は「それにも関わらず恩師を見殺しにした」という自責の念によって、黒く染まってしまったのです。
そこに墓から帰ってきた女性たちが言います。「先生は復活して今も生きている!」「ガリラヤで会うことになると言われた!」
弟子たちは急いで地元に戻り、そこで復活したイエスさまに会いました。見殺しにしてしまった先生は、復活して今、目の前に生きおられる。裏切りは帳消しになり、罪は赦された。そしてガリラヤの思い出と自分の人生は再び、しかし全く新しく、輝き出し(28:3)、やり直しの人生が与えられたのです。「まだ遅くない!」
弟子たちはこのやり直しの人生を、今度は命懸けで、神の愛の実現に捧げていきました。それは武力による政治的な解放ではなく、苦しみをも厭わない愛による罪の赦しです。イエスさまの復活を信じることによる死の力からの解放、「出エジプト」です。
ガリラヤとは私たちの地元、日常生活、人間関係です。「ガリラヤ」は自分の住所です。「◯◯市〇〇町」。そこで私たちは復活のイエスさまに出会い、赦され、今度はイエスさまが世の終わりまで共にいる、全く新しい、やり直しの人生が与えられるのです。
イエスさまは今も生きていて、愛するあの人を命で包んでおられます。だから、まだ遅くない。命を信じて、愛を実現しよう。
苦しみの勝利
「ユダヤ人の王」
マタイ福音書27章29節
2023年4月2日 復活節前主日 (A年)
磔刑像で、イエスさまの上には「INRI」と書かれています。これはラテン語で、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という意味です。
もちろんこれは、ローマ総督ピラトが政治犯としての罪状を書いたのですが、聖書では皮肉になっており、神さまの真実に照らしても、ナザレのイエスさまは「ユダヤ人(どころか全ての人の)王」です。
本当の意味でも、十字架のイエスさまは私たちの王です。しかも私たちの敵である(罪も死も含めた意味での)悪に勝利された王さまです。子なる神さまとして、私たちが隷属していた悪を自らのうちに全て引き受け、悪もろとも死ぬことで滅ぼし、勝利されたのです。
ですから主の受難は本来、「これほどまでに私は罪深いのか」と嘆くのではなく「これほどまでの悪に神さまは勝利された」と喜ぶための物語です。神に見放される、という苦しみと悪の極みに至るまで神さまはご自分の内に受け取られた。そして神さまは私たちが苦しんでおられるのを見過ごしにできないのです。主の苦しみはそれほどまでに私たちを愛し、解放し、創り変えられ始められたことの目に見える印です。
私たちを悪に勝たせる。その目的のためにイエスさまは死に至るまで従順であられました。それほど愛してくださるのです。そして私たちは、神さまの愛の戦利品、その喜び、新しく創造された、栄光を映し出す鏡のような「似姿」なのです。
悪を引き受けて苦しみ、悪を滅ぼされた神さまの愛をよく知り、「万歳」と褒め称えて礼拝しましよう。愛の人生によっても、神を礼拝しましょう。「安心しなさい。私たち、神とあなたは、全ての悪に勝った。」
復活の命は「人格」
2023年3月26日 大斎節第5主日(A年) 何度復活日の礼拝に出ても、愛する人や自分自身の死に直面するとき、信仰が問われます。
ヨハネ福音書第11章の「ラザロの復活」の物語のなかで、マルタとマリアの姉妹(そして読者の私たち)は、死への諦めと不信仰から、復活信仰へと導かれていきます。
まず苛立ち。「なぜ救い主はまだ来てくれないのか。なぜ二日間も止まったままなのか」。(11:6)
そして直接ぶつける怒り。「もっと早く来てくれていたら、死なずに済んだのに!」。愛する人が死んでしまったとき、私たちも怒ります。「なぜ、この人にかぎって!」
そして無関心。「兄弟は復活する」と言われて答えます。「それは遠い死後の、終わりの日のこと。今の私と、死んだ弟には関係ない」。(11:24) 正直、葬送式で言われる「復活」が遠く感じられ、今の悲しむ自分には何の慰めにならないときがあります。
そして「人格の無視」。「わたしは復活であり、命である」。(11:25) つまり「わたしの人格そのものが復活の命だ」とイエスさまは言われるのに「あなたは神の子だとは信じていますが・・・。」と目の前のお方の人格を「素通り」して、うわべだけの教えを述べたのです。
それでイエスさまはご自分の人格への不信仰と無理解に対して、憤り(11:33,38)、涙を流されました。(11:35) 「なぜわたし自身の人格と存在に目を向けてくれないのだ。」
復活信仰とは、死後の状態についての知識ではありません。既に復活して、今も私たちの目の前で生きておられるイエスさまの人格だけを見つめることです。イエスさまの表現は「わたしが復活であり、命である」です。(11:25) 「わたしがあなたに与えて、そのあとはわたしから離れて、あなたが自由に使える命」ではありません。復活の命はイエスさまの人格、存在自体です。「もの」でなく人格です。そして復活信仰はこのお方への信頼です。
復活は既に始まっています。死んだ愛するあの人は、既にイエスさまの人格の中で復活し始めている。そして近くで今、生きている。
弟の甦りを見て、そしてのちにイエスさまの復活をも見たマルタとマリアは、死後の世界について知ったのでも、命を「与えられただけ」でもありません。今、生きておられるお方自身と深く結びつきました。
「愛するあの人は、既に今、わたしのなかで復活し始めている。生きている。だからあなたも、わたしと結びついて今、わたしのなかで復活し始めなさい。復活の命とは、ものではない、わたしの自身のことなのだから。」