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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

By yamamoyama

ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。
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#010 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより)

ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)Oct 06, 2018

00:00
29:26
#038「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか?
Apr 08, 202324:34
#037「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?」(頂いた質問)

#037「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?」(頂いた質問)

第36回目を聞かれての質問について話をしました。

質問「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない状態、御本願をそのまま受け入れている状態を言うのでしょうか?」

話の中で出てきた御文

「「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」


番組を聞いての質問は

ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp

質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou

メール yamamoyama@gmail.com

twitter  @anjinmondou

までお願いします。


May 18, 202232:27
#036「蓮如様は、口に念仏申しただけでは助からぬと仰っていると思います。(略)今のままでは助からないのでしょうか?」(Peing-質問箱-に頂いた質問)

#036「蓮如様は、口に念仏申しただけでは助からぬと仰っていると思います。(略)今のままでは助からないのでしょうか?」(Peing-質問箱-に頂いた質問)

今回は、質問箱に頂いた内容について話をしました。

質問

「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。

一方で、阿弥陀様の御本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。

蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか?

今私は助かりたい一心で、御本願を信じてお念仏をあげています。

今のままでは助からないのでしょうか?」


今回紹介した御文章。

答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略)

他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。

つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(御文章3帖目5通)


番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。

番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544

質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou

メール yamamoyama@gmail.com

twitter:@anjinmondou


May 11, 202229:22
#035「阿弥陀様が、南無阿弥陀仏という名前になって私を救ってくださる。という理解でよろしいでしょうか?」(頂いた質問)

#035「阿弥陀様が、南無阿弥陀仏という名前になって私を救ってくださる。という理解でよろしいでしょうか?」(頂いた質問)

ブログ記事はこちら

安心問答ー浄土真宗の信心について-


話の中に出てくる御文

いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P187)
(82)
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571)

質問箱はこちら

May 04, 202225:14
#034「南無阿弥陀仏を称える衆生を必ず助けるという御本願をそのままきくことができません。どうしたらよいでしょうか?」(頂いた質問)

#034「南無阿弥陀仏を称える衆生を必ず助けるという御本願をそのままきくことができません。どうしたらよいでしょうか?」(頂いた質問)

ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音声版として配信をしています。

今日の質問は質問箱のこちらからです。

話のなかで出てきた尊号真像銘文。

「「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」


Apr 28, 202222:19
#033「この問題は阿弥陀様が勝手に解決してくれるまで待つしかないのでしょうか?」(頂いた質問)
Apr 19, 202223:59
#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)

#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)

#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問)

Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。

話の中に出てきたご文

(安心決定鈔より)

【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。


われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。


(尊号真像銘文より)

「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。


「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。


この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。


(御一代聞書より)

(237)

一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。


ブログ

安心問答

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Jul 21, 202131:22
#031「念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか?」(頂いた質問)
Jun 04, 202131:50
#030「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等のニュアンスが分かりません」(頂いた質問)
Oct 10, 202025:60
#029「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」(頂いた質問)
Apr 25, 202025:10
#028 信後には安心がありますか?(頂いた質問)
Apr 11, 202025:15
#027 逆謗の死骸である機を見つめよとか、機はほっといて法の尊さに目をつけよとか言いますが、どららが正しいのでしょうか?
Mar 31, 202026:15
#026 お寺に行って聴聞すること、ネットでの法話を聴聞すること、本を読むことの違いについて

#026 お寺に行って聴聞すること、ネットでの法話を聴聞すること、本を読むことの違いについて

パロディ (id:parotan) 2019-08-20

交通の便が悪い田舎に住んでいることや、自分の体調のこともあり、なかなかお寺へ参ることができません
そのため本を読んだりネットで法話の動画を見て浄土真宗の勉強をしているのですが、聴聞をしないものは救われないのでしょうか。について、思ったことをラジオ版で話してみました。
Aug 25, 201921:29
#025「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか 」について
Jul 13, 201924:06
#024「阿弥陀仏という余りにも抽象的な概念をそもそも信じるとか信じないとかどういうことだろう?」 「阿弥陀仏に救われるとはどういうことなのだろう?その概念自体が理解できない?」

#024「阿弥陀仏という余りにも抽象的な概念をそもそも信じるとか信じないとかどういうことだろう?」 「阿弥陀仏に救われるとはどういうことなのだろう?その概念自体が理解できない?」

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/21/055958

に関連した内容をラジオ版で収録しました。


・一 あさの御
つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無礙光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かな らず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばず御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。(御一代記聞書2)


・スイカ泥棒の話

Mar 23, 201931:18
#023「してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します」(猿松さんのコメント)

#023「してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します」(猿松さんのコメント)

猿松 2019-02-28 12:03:25

(略)

あれから「おまかせする」ということについて考えておりました。 「弥陀の本願信ずべし」とは「弥陀をたのめ」ということであり「阿弥陀仏におまかせする」ということである。これを詳しく言うと「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」ということなると思います。 しかし自分の心底を見てみると、本当に阿弥陀仏の存在も自分の後生の存在も信じているのか、かなり怪しいところです。 では、なぜ浄土真宗を求めているのかといえば、「このままではロクなことにならない」という漠然とした将来の不安と「この教えには何かある」という漠然とした希望でしかありません。 こんな私が「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」には具体的に何をすればよいのか、お念仏すればよいのか、聴聞に行けばよいのか…しかしこういう思考で念仏したり聴聞したりすること自体ダメだというのはわかります。 つまりしてはならないことはわかるが、してよいことがわからない(してよいことを考えること自体ダメですが…)だからしてはならないことを、ついついしてしまうといった感じで、行き詰まっております。 してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します。 とりとめのない質問となりましたが、先生のご指導をいただければと思います。


頂いた猿松さんのコメントについて話をしました。


Feb 28, 201917:56
#022「罪障功徳の体となる」のご和讃の「罪障と功徳が等価にならない」について

#022「罪障功徳の体となる」のご和讃の「罪障と功徳が等価にならない」について

ブログ記事

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/02/02/203016

に関連して、

罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し  (高僧和讃)

のご和讃について話をしました。

過去の理解と今の理解の違い「罪障と功徳が等価にならない」について話をしました。


Feb 09, 201926:19
#021「信心決定すると後生は極楽浄土に生まれて仏になるという自覚が生まれるのでしょうか?」(ぷろぐれすさんのコメントより)

#021「信心決定すると後生は極楽浄土に生まれて仏になるという自覚が生まれるのでしょうか?」(ぷろぐれすさんのコメントより)

ぷろぐれすさんから頂いたコメントについて話をしました。
Jan 26, 201924:42
#020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)

#020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)

#020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)
Jan 13, 201919:37
#019「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について

#019「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について

頂いた質問

「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について話をしました。

(63)

一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。(御一代記聞書)

Jan 05, 201918:27
#018 「私はなぜ助からないのでしょうか?」

#018 「私はなぜ助からないのでしょうか?」

今回は頂いた質問

「私はなぜ助からないのでしょうか」について話をしました。

Dec 31, 201820:11
#017 ありがたそうな人の念仏と私の念仏は違うような気がします(いただいた質問)

#017 ありがたそうな人の念仏と私の念仏は違うような気がします(いただいた質問)

#017 今回は南無阿弥陀仏と念仏していてもいかにもありがたそうに称えられる人の念仏と比べると、私が称える南無阿弥陀仏と違うのではないかと思ってしまいます。という方からの質問について話をしました。
Dec 23, 201817:42
#016「たすけたまへと弥陀をたのめ」について

#016「たすけたまへと弥陀をたのめ」について

御文章、領解文に書かれている「たすけたまへ」「弥陀をたのむ」について話をしました。
Dec 01, 201824:23
#015「易往而無人」について

#015「易往而無人」について

園児さんのコメントより
「易往而無人」について話をしました。
−−−−
律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 (教行信証信巻 註釈版聖典248頁)
この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
(御文章2帖目第7通 註釈版聖典1119頁)
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Nov 17, 201828:28
♯014 「愚者になりて往生す」について

♯014 「愚者になりて往生す」について

今回は園児さんのコメントから
「愚者になりて往生す」(末灯鈔)について話をしました。
Nov 10, 201828:20
#013 心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。(御一代記聞書232)について

#013 心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。(御一代記聞書232)について

今回は
「心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。」(御一代記聞書232)の意味について質問を頂いたので話をしました。
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一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。
(御一代記聞書232 https://bit.ly/2Qg0iSn)
---------
Nov 03, 201826:52
#012 阿弥陀仏に早く救われる人と時間がかかる人と何が違うのですか?

#012 阿弥陀仏に早く救われる人と時間がかかる人と何が違うのですか?

今回は、「阿弥陀仏に救われるのに、信心決定するのに、早い人と遅い人がなぜいるのでしょうか?」という質問について、話をしました。
Oct 29, 201822:46
#011 親鸞聖人は、歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。

#011 親鸞聖人は、歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。

メールで頂いた質問
歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。
について話をしました。

今回収録に出てきた御文
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄)
http://labo.wikidharma.org/index.php/歎異抄#.E7.AC.AC1.E6.9D.A1

(114)
超日月光この身には
念仏三昧をしへしむ
十方の如来は衆生を
一子のごとく憐念す(浄土和讃)
http://labo.wikidharma.org/index.php/浄土和讃#P--577

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(御消息)
http://labo.wikidharma.org/index.php/親鸞聖人御消息#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.281.29

Oct 13, 201832:23
#010 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより)

#010 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。(タロウさんのコメントより)

タロウさんのコメントについて話をしました。
以下、ブログのコメントより
−−−−−−−−−
タロウ 2018/10/06 22:38
山も山さんこんにちは。
わざわざ記事にしてくださりありがとうございます。
>それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです

わからないのがここです。

これだと、
「なんともなろうとは思ってない聞き方」があると解釈
できてしまします。

ネットラジオNo4で山も山さんがお話になった、
「聞思して遅慮することなかれ。」っという
ことなのだと思うのですが、心の性質上そんなこと
が可能とは思えないのです。耳で聞いた情報は、耳に入ってき
た瞬間に思いが(計らい事が)働き、自分勝手に解釈
してしまうようにでけていると思うのですよ。。

「聞思して遅慮することなかれ」
これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という
ようなものではないかと思うのです。
つまり、できっこないことをヤレ!と言われている
気分なのですよ。
気にする、注意する、思う・・っといったことは、
わりかしできますが、
・思うな
・気にするな
・計らうな

これは無理っぽいです。
・思う必要がない
・気にする必要がない
・計らう必要は無い
これが腑に落ちる縁に出会った時に初めて可能
になるのだろうとは思います。

聴聞というのは禅の公案みたいな
ものなのかな?とは勝手に思っています。

聞いたまんまが信心です・・の、聞即信。

聞いたまんま、そうですね・・っと、
ならないのが煩悩の仕業であるとは
思ってます。

「必ず救う、我に任せよ」・・
これが、たとえおとぎ話であろうがなんだろうが、
本心から、
「ホントにそうなんだぁ!、なんてこったいウヒョー!!」
っと思い喜べたら、それは間違いなく素晴らしいことです。
頭がイカれた奴と思われても私は一向に構いません。
−−−−−−−−−
Oct 06, 201829:26
#009 今日こそは本願を聞いて救われるつもりで法座に足を運びますが、今日も駄目だったかと帰っている日が続いてます。

#009 今日こそは本願を聞いて救われるつもりで法座に足を運びますが、今日も駄目だったかと帰っている日が続いてます。

今回の頂いた質問
「法座に足を運ぶ時、今日こそは聞いて疑いない身になろうと思っています。しかし、法座が終わると今日も駄目だったかと肩を落として帰っています。こう言う状態がずっと続いていますが、どう聞いたらいいでしょうか」

不断光ということから話をしました。
Sep 29, 201828:19
#008本願を聞いて有難いとは思うものの、なかなかそうだなとは思えません。

#008本願を聞いて有難いとは思うものの、なかなかそうだなとは思えません。

今回は「本願を聞いても、有難いとは思うものの、なかなかそうだなと思えません。どう聞いたらいいのでしょうか?」について
Sep 23, 201818:18
#007 信心決定すると疑心あることなしとはどういう状態ですか?

#007 信心決定すると疑心あることなしとはどういう状態ですか?

メールで頂いた質問。
「信心決定すると疑心あることなしということですが、どういう状態が疑心あることなしなのかが、正直わかりません。」
について話をしました。
Sep 15, 201824:40
#006 仏願の生起本末のお話は、何度も聞かせて頂いているのですが、どこがちゃんと聞けていないのでしょうか?

#006 仏願の生起本末のお話は、何度も聞かせて頂いているのですが、どこがちゃんと聞けていないのでしょうか?

ブログに頂いた、ぷろぐれすさんのコメントについて話をしました。
−−−−−−−−−
d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180906/1536221470#c1536313186

●「南無阿弥陀仏と耳に聞こえているでしょう?
南無阿弥陀仏と口に称えられているでしょう?
それが証拠です。
なぜ、証拠だとおっしゃっているのか、

それがわかりません。
仏願の生起本末のお話は、何度も聞かせて頂いているのですが、どこがちゃんと聞けていないのでしょうか?具体的にご指摘頂ければ幸いです。
−−−−−−−−−
・御一代記聞書より
(9)
一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔・末意)と候ふを、え存ぜず候ふよし申しあげ候ふところに、仰せに、ききわけてえ信ぜぬもののことなりと仰せられ候ひき。
Sep 08, 201828:34
#005 「地獄へ堕ちるのではと気になります」について。
Aug 28, 201827:49
#004 本願に疑い晴れる方法はないけれど、聴き方の注意点はありますか?

#004 本願に疑い晴れる方法はないけれど、聴き方の注意点はありますか?

田子さんからの質問についての話。http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180815/1534315786#c1534754553
「各お寺で聴聞をさせていただいているのですが、なかなか阿弥陀仏の本願に対して疑いがはれません。どうすればはないとお聞きしますが、聴き方に対する注意点などありますでしょうか。よろしくお願いします。」
について話をしました。
Aug 21, 201825:06
#003「聞法すれば救われるというのは間違いとは思いますが?」について
Aug 12, 201829:44
#002 仏教の難しい言葉はあまりわからないので、飛ばして読んでもいいでしょうか?

#002 仏教の難しい言葉はあまりわからないので、飛ばして読んでもいいでしょうか?

今回は、メールで頂いた質問。
「仏教の難しい言葉はあまりわからないので、ブログを読むときお聖教の言葉はほとんど飛ばして読んでいますが、これでいいでしょうか?」
について。
Aug 04, 201818:24
#001 音声版安心問答始めました
Jul 29, 201823:59