iChurch.me: 三十番地キリスト教会

iChurch.me: 三十番地キリスト教会

By Masaki Tomita
こちらはウェブ教会「iChurch.me:三十番地キリスト教会」のポッドキャストです。牧師:富田正樹の礼拝メッセージの音声を放送します。
リベラルなキリスト教のお話をお聞きになりたい方はどうぞおいでください。
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2020年4月5日(日)「イエスはあなたを独りにしない」(受難週のメッセージ)
レントの最終週の日曜日は「棕梠の主日」(パーム・サンデー)と言い、イエスがエルサレムの街に入ったことを祈念します。これからの1週間は「受難集」(パッション・ウィーク)と言い、いよいよイエスが苦しみを受けることを追体験する週とされています。 イエスは恥と孤独と苦痛の極みを経験しながら、人間として最低の人生の結末を迎えました。本当に救いようのないほどの最低の死に方です。 しかし、イエスの死に様が酷ければ酷いほど、イエスの死は私たちにとって恵みの深いものになるのです。なぜなら、イエスは人間として味わいうる苦しみの最低限を味わって、この世の苦しむ人と共に寄り添おうとされたからです。 「信じればハッピーになれますよ」という信仰は、本当に苦しんでいる人を救いません。信じても祈っても、楽にもならないのが人生の現実です。そのような苦悩する人を少しでも癒すのは、一緒に苦しんでくれる人の存在です。イエスは全くの孤独のうちに死ななければいけない人の気持ちを解ろうとして、自分自身も全くの孤独のうちに死んだのです。 人間の苦しみにとことん付き合おうとされたイエスの愛に感謝したいと思います。
24:02
April 6, 2020
2020年3月15日(日)「生まれてこなければよかった」(受難節のメッセージ)
イエスの「最後の晩餐(または主の晩餐)」の場面において、イエスは自分を裏切る者の出現を予告します。それは、次のような強烈な衝撃を与える言葉を含んでいます。 「生まれなかった方が、その者のためによかった」 あの慈愛に満ちたイエスでも、自分を裏切る者のことは赦すことができなかったのでしょうか。「生まれなかった方がよかったのに」というのは、あまりにも人間に対して無慈悲な断罪ではないでしょうか。 しかし、私たちはこの言葉に人間イエスの真実を見ます。人間イエスにとっては、自分の愛する弟子たちの中から自分を裏切る者が現れることは想定外だったのです。イエスは悲しくて苦しくて仕方がなかったのです。そして、自分が苦難を受けて死ぬことを予感して、恐ろしかったのです。 私たち自身、予想もしなかった出来事に襲われて、誰にもわからない苦しみを一人で背負い込まなくてはいけなくなってしまう時があります。でも、その苦しみをわかってくれる人がいる。それがイエスです。 イエスこそ、人間が味わい得る最大の苦しみを受けて、惨めに死んだ人間です。しかし、世の中には相変わらずそうやって死んでいる人がたくさんいます。どうやら神は、人間の苦しみを無くそうとしているのではなく、苦しみを共にすることによって愛し合い、そこから喜びや楽しみが湧いてくることを私たちに教えようとしているのです。 徳島北教会ウェブサイト https://tokushima-kita.com 徳島北教会ライン http://nav.cx/jdCaztS 徳島北教会ツイッター https://twitter.com/tokushima_kita 徳島北教会インスタグラム https://www.instagram.com/tokushima_kita/ 徳島北教会フェイスブック https://business.facebook.com/tokushima.k/
22:15
March 15, 2020
「神さまがしたことじゃない」(贖罪論のちょっとした修正のご提案)
レント(受難節)に入りました。イエス・キリストが苦しみを受けられたことを覚えて、自らの罪を悔い改めたり、弱点を克服するための努力をしたりといった季節としてキリスト教の暦では定められています。 イエスは何のために苦しみ、なぜ殺されたのでしょうか。 よく、「イエスは人間の罪に与えられるべき罰を、身代わりに受けてくださったのだ」ということを言うクリスチャンの方がいらっしゃいます。しかし、その考えは現代の神学からは疑問の声も上がっているということを申し上げておきたいと思います。 そもそも私たちが信じる神様は、「お前たちの罪は赦せない。誰かいけにえを出せ」というようなことを人間に要求する神様でしょうか? そして、いけにえの代わりに我が子に罰を負わせようとするような虐待的な父なる神なのでしょうか? そうではありません。イエスを十字架にかけたことが私たちの罪なのです。けれども、イエスはその仕打ちから逃げることなく、自ら痛み苦しむことで、私たちの人生の苦難で強張ってしまった魂を溶かして、柔らかく癒してくれたのです。 神が罰を必要としているという考え方が、私たちの社会からスケープ・ゴートを生み出す過ちを承認し、温存してしまうことにつながっています。スケープ・ゴートというのは、あってはならない、克服しなければならない風習なのです。 私たちは、自ら痛み苦しむことによって私たちの苦痛を一緒に引き受け、癒してくださったイエスに感謝しつつ、しかしイエスをそのような目に合わせてしまったことを悔い改めつつ、このレントの時を私たちの世の中を変えるために、意味のあるものにしたいと思います。
26:11
March 11, 2020